第73回 岩手日報文化賞・体育賞

 第73回岩手日報文化賞・体育賞に決まった個人・団体の業績を紹介する。

 

文化賞特別賞

プロボクシング元世界3階級王者
八重樫 東やえがし・あきらさん(37)

歴史に残る「激闘王」

世界3階級制覇を果たし喜ぶ八重樫東=2015年12月29日、東京・有明コロシアム

 9月の引退会見で述べたこの一言が、山あり谷ありだった八重樫さんのボクシング人生を物語る。「(プロになって)7回負けているが、僕が誇れることは世界チャンピオンになったことではなく、何度も負けても立ち上がったこと」。激しい打ち合いを恐れない戦いぶりは「激闘王」と称され、その姿は県民の心に深く刻まれた。

 高校入学後にボクシングを始め、3年時にインターハイを制し岩手日報体育賞を受賞。大学でも国体優勝。アマチュアエリートとして鳴り物入りでプロ入りし、2006年に日本最速タイ記録(当時)となる5戦目で東洋太平洋王者となった。07年にはプロ最短(7戦目、当時)での世界タイトル獲得に挑んだが、顎を骨折するアクシデントもあり判定負け。順風満帆だったボクシング人生が一転、一からの出直しを迫られた。けがもありジム会長から引退勧告を受けたこともあったが、地道なトレーニングで復活を果たした。

 11年に2度目の挑戦で悲願の世界タイトルを奪取。世界ボクシング協会(WBA)ミニマム級王者にTKO勝ちし、県人初の世界王者となった。迫力あるKOシーンは、国際的にも高い評価を得た。

 翌年の初防衛戦は世界ボクシング評議会(WBC)ミニマム級王者・井岡一翔との日本人同士初の団体王座統一戦。敗れはしたが、最後まで白熱した攻防が続き年間最高試合に選ばれた。日本ボクシング史に刻まれる一戦となり、「激闘王」の名を全国にとどろかせた。

 13年にWBCフライ級のベルトを獲得し2階級制覇。4度目の防衛戦で「軽量級最強」「怪物」と称されたローマン・ゴンサレス(ニカラグア)と対戦。ダウンを奪われてもひるまずに打ち合いを挑み、最後は力尽きてマットに沈んだが、諦めない戦いぶりに試合後も会場の「アキラ」コールがやまなかった。

 14年に世界3階級制覇を懸けてWBCライトフライ級王座決定戦に臨むもKO負け。限界説もささやかれたが、3カ月後に現役続行を表明した。再起を果たし、15年に国際ボクシング連盟(IBF)ライトフライ級王者に判定勝ち。日本人男子3人目となる3階級制覇を達成した。

 17年に初回KO負けを喫して王座から陥落。19年に4度目の世界奪取を目指しIBFフライ級王者に挑んだが、願いを果たせずラストファイトとなった。プロ通算戦績は35戦28勝(16KO)7敗。

 

文化賞

犬や猫の保護、責任を持って飼うことが
できる家庭への譲渡活動を続けて20年

動物いのちの会いわて(雫石町)

ペット守る橋渡し役

保護された猫の世話をする動物いのちの会いわての下机都美子代表。20年にわたり捨てられた犬猫などを保護し、新たな家庭へ譲渡してきた=雫石町丸谷地

 雫石町丸谷地の動物いのちの会いわて(下机都美子(しもつくえとみこ)代表)は、捨てられた犬猫の保護、責任を持って飼える家庭への譲渡を続けている。活動は今年で20年。これまでに5500匹超の犬や猫が命をつないだ。

 盛岡市などで野良猫に餌やりをしていた会社員ら有志6人により、2000年9月に発足。01年に矢巾町の空き家を拠点とし、02年には保健所で殺処分が迫る犬猫の引き取りを始めた。

 転機は同年、雫石町で酪農家の夜逃げで100匹超の猫が放置された出来事。83匹を保護し、その報道を機に相談や動物の持ち込みが急増した。一時預かりボランティアの募集や譲渡会など外部への発信は、現在に至る活動の礎となった。

 09年には雫石町の現在地に移転。住民合意の下で避妊手術や餌の管理を行い、野良猫の自然減につなげる「地域ねこモデル事業」に盛岡市と取り組むなど、行政や獣医師らとの連携も強めた。そのつながりが生きたのが東日本大震災。被災動物と飼い主を支援する県災害時動物救護本部の中核を担い、物資配布や犬猫の一時預かりに奔走した。

 その後も県獣医師会などと設立した被災動物支援隊いわてで継続支援。一連の活動で12年3月末までに会として犬54匹、猫107匹を保護、ほとんどが飼い主の元に戻るか里親に迎え入れられた。官民連携の「岩手方式」は災害対応の好事例として注目を集めた。

 現在は約300平方メートルの施設で、犬20匹、猫280匹ほどが新たな飼い主を待つ。支えは会員約7千人の年会費と寄付や物資支援。雇用9人やボランティアが日々掃除や餌やりなどに汗を流す。今年は新型コロナウイルスの影響もあり譲渡会も縮小したが、命を守るための地道な活動が続く。

 県などによると、19年度の殺処分は犬25匹、猫239匹。会草創期の殺処分は年間約7千匹だった。下机代表(70)は「飼い主が動物を適正に飼い、育てることができれば譲渡会などは必要ない。相談や危機にある動物の緊急レスキューに特化できるよう、法整備を含め理解が広がればいい」と一層の啓発を誓う。



石川啄木と宮沢賢治の業績を、自身が歌人
でもある視点を持ち探究する研究者

望月 善次もちづき・よしつぐさん(盛岡市)

独自視点で短歌評釈

石川啄木、宮沢賢治ともにゆかりある岩手公園で「(2人とも)言語の斡旋力が抜群」と評価する望月善次さん=盛岡市内丸

 本県が誇る文学者の石川啄木、宮沢賢治の世界へ、自身が歌人(筆名・三木与志夫(よしお))でもある視点を持ってアプローチ。啄木では、歌集未収録の短歌千首超を含む多数の歌を評釈。賢治は全短歌の評釈を行った。

 啄木については「言語斡旋(あっせん)力(言葉を扱う力)がものすごい。賢治もそうだ」と評価。「大変な早熟で19歳にして詩集『あこがれ』を出版できた。そこにとどまらず、後に妻・節子の家出に決定的打撃を受け自分の駄目なところもありのまま歌うようになる。大抵の明治の男はそこまで飛躍できない。ただものではない」と晩年の深まりに感服する。また「啄木の三行書きについての歌論は、理論としては誤り。だが数々の秀歌を詠む契機となった。この指摘が啄木についての中核的仕事」と自負する。

 一方「賢治の歌は、技巧的には素朴。それだけ専門的知識によって汚されていない。発想が自由だ。宇宙から地球を見る、といったことができる。特に法華経の知識から、10の何十乗という単位の壮大な時間感覚を理解していた」と突き抜けた認識力に目を向ける。

 山梨県甲府市生まれ。東京教育大(現筑波大)卒。同大大学院教育学研究科(修士課程)修了。啄木、賢治短歌を中心とした詩歌教育研究と、国語科の教師教育研究が専門だ。

 1979年岩手大教育学部講師。89年教授、2007年名誉教授。同年から12年まで盛岡大・同短期大学部学長。全国大学国語教育学会理事長(会長)、日本国語教育学会理事などを歴任。

 11年から4年間は国際啄木学会会長。インド、台北、シドニー大会に尽力し研究の国際化に貢献。宮沢賢治学会イーハトーブセンターでは副代表理事などを務めた。13年、特定非営利活動法人「石川啄木・宮沢賢治を研究し広める会」を組織。顕彰活動も進める。

 「啄木、賢治ともに海外でよく受け入れられる。当然だと思う。人の本質に迫っている」と世界的視野から両者を見つめる。

 現在は宇宙史の中の人類の営為を原理的に考察し国語科教育学に位置づけるべく知的格闘。学究は続く。




70年にわたるガス事業で県民生活と地域経済を支え、
東日本大震災後は防災活動で被災地支援を強力に推進

北良ほくりょう(北上市)

災害支援の活動進化

「再び災害で犠牲者を出さない」との思いを胸に、数々の支援機器を前に活動の進化を誓う北良の笠井健社長(右から4人目)と社員

 ガス事業を始めて今年で70年を迎えるガス製造・販売の北良(資本金1千万円、79人)は東日本大震災後、先進的な防災プロジェクトを立ち上げ、全国の被災地で救済活動を展開している。災害で命を落とす人をもう一人も出したくない-。「あの日」から10年になるのを前に、3代目の笠井健(かさいけん)社長(46)は「モノ、そして人の心を動かすエネルギーを提供する会社でありたい」と誓う。

 大型トラックに酸素ガスを載せ、北上市と盛岡、宮古両市間を運搬する。こうして始まった同社の歴史は、1954年の前身・笠井商店の創業、75年の北良設立を経て、家庭、産業、医療用ガスの供給体制を整えた。県内最大級のLPガス充填(じゅうてん)所も構え、約2万世帯の生活を支えている。

 高度医療に欠かせない医療用ガスの供給シェアは県内トップ。長年にわたり在宅酸素療法(HOT)患者らに「命のガス」を届ける中、震災が本県を襲った。

 発生45分後には酸素ボンベを満載したトラックを出発させて供給を始めたが、停電でたん吸引器が使えずに患者が死亡した病院もあった。「再び災害で犠牲者を出さない」。全社員がそう誓い、震災の教訓を生かした支援に乗り出した。

 活動の軸は3年後に立ち上げた「医療と防災のヒトづくり×モノづくりプロジェクト」。全国で頻発する大規模災害の被災者の声を直接聞き、それを次の宿題にする。その「産物」は各地の被災地で躍動している。

 16年熊本地震では約3千キロを無補給で走る支援車両を現地に走らせ、ベンチャー企業と共同開発した水再生システムによるシャワー室は18年西日本豪雨や19年台風15号豪雨などの被災地で数千人が利用した。

 今年はこれらノウハウを凝縮した移動型住宅コンテナ「レスキューブ」を開発。水、電気、ガスを搭載し、実用化できれば災害時に長期間にわたって不自由なく避難生活を送れる。

 「たとえ多額の費用がかかっても、1人の命を助けられるならそれでいい」と笠井社長。災害支援のパイオニアは、次世代を見据えて新たな挑戦に踏み出す。

 

体育賞

指導者として本県カヌー界の発展に尽力
小野 幸一おの・こういちさん(45)

全国、世界へ選手輩出

国体で優勝した教え子と握手を交わす小野幸一さん(右)=2017年10月4日、愛媛県大洲市

 山形県河北町出身。地元の谷地高でカヌーを始め、3年時に全国高校選手権(当時はインターハイ競技ではなかった)、山形国体で入賞。日体大でもインカレで優勝した。民間企業を経て、山形県で中学講師を務め、2002年不来方高講師。岩手県教委のスポーツ特別選考で正式採用され04年から体育教師。カヌー部の指導に当たり、インターハイ競技となった06年、男子4種目優勝を果たすなど大きく飛躍させた。主力だった水本圭治(チョープロ、不来方高-大正大)は、21年東京五輪代表となった。

 その後も、インターハイや国体で毎年のように入賞者を輩出。全国優勝はインターハイと国体だけで20を超える。

 11年の東日本大震災では陸前高田市に置いていたカヌー18艇全てを損失する悲運に見舞われたが、くじけずに立ち直り同年北東北インターハイで男女計11入賞を成し遂げ、県民に勇気と希望を与えた。

 15年にはインターハイ女子6種目中4種目を制し、女子学校対抗で県勢初の優勝を飾り、翌年は連覇を果たした。17年は準優勝。18年は男子優勝者を輩出するなど同校を全国トップクラスの強豪校に育て上げた。頑張ってきた選手が優勝した時には、思わず男泣きするなど人情家の一面も。

 社会人、学生で活躍する選手の多くは同校OB、OGで、本県の競技力向上、競技人口の底辺拡大にもつながっている。



第75回国民体育大会冬季大会スキー競技会
成年男子B大回転優勝

宮本 慎矢みやもと・しんや選手(三田商店)

大けが乗り越え頂点

スキー国体の成年男子B大回転で優勝して仲間から祝福される宮本慎矢選手=2月17日、富山県南砺市

 2月17日、富山県南砺(なんと)市のたいらスキー場で行われた第75回国民体育大会冬季大会スキー競技会成年男子B(27~34歳)大回転で優勝。2位に1秒24差をつける圧勝だった。県勢のアルペン種目の優勝は12年ぶり。

 レースは1回勝負。試走で難コースではないと分析し、旗門の特徴を頭にたたき込んだ。

 徹底的に攻めることを誓い、気合十分でスタート。バーンが荒れていない1番スタートの好条件だったこともあり、前半はリズムに乗り、巧みなターンで加速。後半はスピードを落とさないよう心掛け、直線的なラインで一気に滑り降りた。ゴール直後は「タイムが良いのか悪いのか分からなかった」と苦笑い。掲示板で後から滑る選手が自分の下に増えるにつれて「良い滑りだったんだ」という思いが込み上げた。

 大学3年時に全日本学生選手権(インカレ)回転を制した実力者。2016年2月の岩手国体に向けて本県の選手となった。しかし、本番3カ月前に遠征先のイタリアで転倒。左脚の前十字靱帯(じんたい)損傷の大けがを負い、長期離脱。国体出場さえかなわなかった。

 懸命のリハビリで競技に復帰。国体は17年7位、18年15位、19年途中棄権と結果を出せなかったが、年齢区分がBに移った初の大会で頂点に立った。本県の選手になって5シーズン目。試練を乗り越えてつかんだタイトルだった。

 今後もワールドカップ出場を目指し、滑りに磨きをかける。



第3回冬季ユース五輪スノーボード女子ビッグエア優勝
浅沼 妃莉あさぬま・ひなり選手(ムラサキスポーツ北海道、宮城・東北高2年)

大舞台で会心の演技

冬季ユース五輪のスノーボード女子ビッグエアで優勝した浅沼妃莉選手=1月22日、スイス・レザン(ゲッティ=共同)

 1月22日、スイスのレザンで行われた第3回冬季ユース五輪のスノーボード女子ビッグエアで優勝した。

 予選3位で決勝に進出。決勝では会心の演技で頂点に立った。17歳のヒロインは「自分が成功したのがうれしすぎる」と満面の笑みを浮かべた。

 1回目にいきなり93・50点の最高点と好スタートを切った。2回目は着地に失敗したが、最後の3回目では「自分を信じて頑張った」と技を決め切り、「オフシーズンにコーチの下ですごい練習していたのもあった」と勝因を振り返った。

 2022年の北京冬季五輪でも活躍を目指す。「本当の五輪にも出てしっかりと(いい)順位を取れるように練習をしていきたい」と次の舞台を見据えた。スロープスタイルでも4位入賞した。

 盛岡市出身でスノーボードを始めたのは5歳の時。両親がやっていたこともあり、自然と親しんだ。

 18~19年シーズンは世界ジュニア選手権(スウェーデン)に出場し、スロープスタイルで6位、ビッグエアは7位に入った。

 練習に打ち込むため親元を離れて高校に通う。学校のホームページでも活躍が紹介され、その中で「競技の魅力は難易度の高い技ができたときの達成感と、同じ競技に取り組む様々な年代の人と関わることができること。年上の人や海外の人とも知り合えてとても楽しいんです」と充実した日々を語っている。



第75回国民体育大会冬季大会スケート、アイスホッケー競技会
成年女子2000メートルリレー優勝

八戸スケート国体成年女子2000メートルリレー岩手チーム

県勢初 栄光のゴール

スケート国体のスピード成年女子2000メートルリレーで優勝した本県チームの(左から)熊谷萌、三嶋萌、星野帆乃華、松沢優花里の4選手=2月2日、八戸市

 2月2日に八戸市のYSアリーナ八戸で行われた第75回国民体育大会冬季大会スケート、アイスホッケー競技会スピード成年女子2000メートルリレーで優勝。本県がリレーを制するのは4種別(成年と少年の男女)を通じて初めての快挙だった。

 オーダーは1走熊谷萌(山梨学院大1年)、2走三嶋萌(大東大4年)、3走星野帆乃華(日体大2年)、アンカー松沢優花里(サンエスコンサルタント)。前日の予選をトップタイムで通過すると、4チームで争われた決勝では序盤から先行してトップを譲らず2分38秒80でゴール。2位の青森に6秒16の大差をつける快勝だった。

 500メートルを制し、少年3連覇に続き国体4連覇を成し遂げた熊谷が抜群の反応で飛び出した。「自分が後ろとの差を開く」と宣言通りの快走。他の3チームがバトンパスで転倒し、三嶋は「足音が聞こえず、あれっと思ったが、落ち着いて滑れた」と冷静にレースを進めた。星野が「8割の力で落ち着いていけた」と確実につなぐと、チーム最年長24歳の松沢は「仲間がしっかりつないでくれた。転ばないように」と気を緩めることなく栄光のゴールに飛び込んだ。

 三嶋は陸前高田・気仙中1年時に東日本大震災で自宅が全壊し、父親が行方不明に。諦めずに競技を続けて国体ラストレースでの栄冠。表彰式を終えて集まった4人は、三嶋を中心に歓喜の輪をつくった。