第72回岩手日報文化賞・体育賞に決まった個人・団体の業績を紹介する。

第72回岩手日報文化賞


本間希樹所長ら研究者が加わった国際協力プロジェクトで、
史上初めてブラックホールの撮影に成功

国立天文台水沢VLBI観測所(奥州市)

宇宙の謎に迫る偉業

「ブラックホールの魅力が国内外の研究者たちを一つの目標に向かわせた」と語る本間希樹所長(中央)ら=奥州市・国立天文台水沢VLBI観測所

 4月、世界一斉に発表された「史上初のブラックホール撮影成功」のニュースは、これまで科学に関心の薄かった一般市民をも宇宙の魅力に引き込んだ。

 撮影を成功させた国際プロジェクトは米国、ドイツ、台湾など世界13機関の約200人が参加。国立天文台水沢VLBI観測所の本間希樹(まれき)所長(48)が日本チーム代表を務め、水沢の在籍者は6人。海外の研究機関などとの兼務を含めると、水沢に籍がある研究者は9人に上った。

 5500万光年離れたおとめ座の銀河・M87のブラックホールを撮影する壮大な計画。世界6カ所の電波望遠鏡を組み合わせ、直径約1万キロの地球と同じサイズの仮想望遠鏡を形成することで実現させた。

 今回、水沢のアンテナは使われなかったが、水沢には遠くの電波望遠鏡を組み合わせる観測手法の専門家がそろう。銀河系の立体地図をつくるプロジェクトにも使われている技術で、本間所長は「これまでの経験や蓄積が生きた」と語る。

 水沢の研究者たちはチリにあるアルマ望遠鏡の運用やデータ伝送装置の開発に貢献。撮影後約2年間、膨大なデータの解析などを行った。田崎文得特任研究員(34)は「画像化のため、年末年始を返上して5万通りのテストを行った」と明かす。

 今年は旧緯度観測所が設置され、初代所長の木村栄(ひさし)博士(1870~1943年)が観測を始めて120年の節目。木村博士は世界6カ所の共同観測事業で、緯度変化に関わるZ項を発見し、世界の科学者たちを驚かせた。

 水沢VLBI観測所には、月や小惑星りゅうぐうの探査プロジェクトに関わる研究者もいる。12月には、市民と共に節目を祝う式典を予定する。

 本間所長は「世界の研究者と一緒に何かを成し遂げることは、水沢の遺伝子に刻み込まれている」ときっぱり。ブラックホール撮影発表後も、地元菓子組合とオリジナル菓子作りを進めるなど地域と積極的に関わる。研究者たちも「天文のまち」として歩みを市民と共に進める覚悟だ。

 VLBI(超長基線電波干渉法) Very Long Baseline Interferometry(ベリー ロング ベースライン インターフェロメトリー)の略。VLBI観測によって離れた複数の電波望遠鏡の観測データを合成し、天体の位置や運動を高精度で捉える。




医師・歯科医師・薬剤師・看護師養成機関で
本県唯一の特定機能病院として地域医療の中核を長年担っている

学校法人岩手医科大学(矢巾町)

移転完遂 挑戦新たに

「職員一丸で、新しい病院に命を吹き込みたい」と決意を語る小川彰理事長=矢巾町医大通・岩手医大付属病院

 「誠の人間」を育て県民の命を守る-。本県医療の拠点、県内唯一の医師養成機関として120年余の歴史を刻む岩手医大は9月、付属病院を盛岡市内丸から矢巾町に移転開院し、新たな挑戦の一歩を踏み出した。

 田園地帯と新興住宅地にそびえ立つ地上11階建ての新病院(千床)。キャンパス移転と合わせ2002年の本格始動から18年越しの「世紀の大事業」を完遂させ、小川彰理事長(70)は「世界に誇れる素晴らしい病院だ」と誇る。

 県内唯一の特定機能病院で、ハイブリッド手術室、放射線治療システムなど高度な診断・治療機器に加え、ドクターヘリ基地に隣接する高度救命救急センター、総合周産期母子医療センターを備える。旧付属病院を活用した外来中心の内丸メディカルセンターと2院体制で、命のとりでとしての役割を増した。

 岩手医大の源流は、北東北の医療の困窮を憂いた創設者三田俊次郎(1863~1942年)が併せて開設した医学講習所と産婆看護婦養成所。志を継いだ息子定則(1876~1950年)は「誠の人材育成」の学是を掲げた。

 岩手医大の歩みは地方の医師不足、貧困克服への挑戦だった。時代に先駆けた医師・看護師らによるチーム医療、貧しい人々への無料診療、医師を志す若者への育英事業。戦後も無医村での診療活動と地域医療を支え、新生児難病の特効薬開発など最先端の研究による業績も打ち立てた。

 東日本大震災では発生直後から医療支援に注力。全国の医療チームを一元調整し、被災者の健康を守り続けた。13年には災害医療人材の育成講座を立ち上げ、新たな災害医療モデル確立を目指している。

 07年に矢巾キャンパス開設に合わせて薬学部、17年には看護学部を新設。医・歯・薬・看4学部の医療系総合大学として発展を続ける。「世界一を目指し、新しい病院に命を吹き込む。そのためには、職員全員の『誠の人間』としての人間形成が必要だ」と小川理事長。建学の精神を受け継ぎ、新天地で歴史を刻む。



「かまいしの第九」演奏会を1978年から毎年開催し、
音楽の素晴らしさを伝え続ける

「かまいし第九」実行委員会(釜石市)

鎮魂と復興 歌に込め

伸びやかな歌声を会場に響かせた昨年の「かまいしの第九」演奏会=釜石市・市民ホール

 釜石市で市民が参加するベートーベン「第9交響曲」の演奏会を手作りで毎年開催し、歌う喜びと音楽の素晴らしさを伝えている。2011年の東日本大震災で会場が被災しても継続し、鎮魂と復興の思いを込めて「歓喜の歌」を歌い続けている。

 初回は1978年、市民文化会館の落成式典で釜石第九を歌う会として演奏。合唱106人と吹奏楽が第4楽章を披露した。東京荒川少年少女合唱隊を国内有数の児童合唱団に育てて帰郷した渡辺顕麿(あきまろ)さん(故人)の指導により、前年に釜石混声合唱団27人が第9を演奏。渡辺さんと団員が働き掛けて「歌う会」が誕生した。第2回から管弦楽と全4楽章を演奏。各地で年末などに第9が演奏される中、市民を中心に地方都市での毎年開催は珍しい。

 今年は12月15日。7月に発会式を行い、8月から市内の公民館などで練習を重ねる。小学2年生から80代まで幅広い世代が参加。第9で合唱を初めて経験した人がほとんどだ。釜石市定内町の菅原直子さん(81)は第3回から毎年、夫を亡くした年を除いて出演し「ハーモニーを作るのが楽しい。歌の意味を考えると毎年発見がある」と語る。

 2009年から実行委会長を務める川向修一さん(67)=同市住吉町=は初回から出演する5人の一人。第3回から事務局長として運営に携わった。「漫然と重ねるだけでは40回以上続かない。渡辺さんは『第9はイベントではない。やるのなら精神を含めて勉強して、生活の中に取り込め』と言われた」。続けることで本物の文化が生まれる-。この精神を支柱に続けてきた。「釜石のやり方に合う管弦楽を編成できたこと、渡辺さんの思いを受け継ぐ指揮者が地元にいたことが大きかった」と振り返る。03年から地元中学校が参加する企画を加え、継承にも取り組む。

 震災で家族や自宅を失ったメンバーもいる中、演奏会を続けた。17年、市民ホールこけら落とし公演で40回を数えた「かまいしの第九」。歌に込めた思いを未来へつなぐ。




県産材を100%利用して「稼ぐ林業」をけん引し、
本県の里山林業の活性化や震災復興、地域振興に貢献

北上プライウッド(北上市)

森の保全担う木製品

薄板を貼り合わせる北上プライウッドの合板製造ライン。年間約12万立方メートルもの県産材を使い、里山林業の再興をけん引する=北上市和賀町後藤

 合板製造の北上プライウッド(資本金1億円、49人)はカラマツやアカマツ、スギなどの県産材を100%利用し、県内18森林組合、35林業事業者と連携して調達、加工、供給体制を構築した。県産材利用(購入額)は稼働3年目の2017年、ホクヨープライウッド(東京)を合わせ30億円を突破し、本県素材生産量の約2割を扱う。

 東日本大震災で大船渡の2工場、宮古の1工場が被災。従業員2人も失い、再開断念を余儀なくされた。再興を誓い、13年に北上市の後藤野工業団地に北上プライウッドを設立。8・1ヘクタールに工場棟などを建設し、被災工場の退職者を含む約40人を雇用。年約12万立方メートルの原木を使い、年約330万枚の合板を製造する工場として15年に稼働した。

 原木からは製材などに使うA材、合板向けのB材、C材(くい、チップ、木質ボードなど)、D材(まき、ペレット等燃料材)が取れる。全てバランス良く使い採算性を高める「カスケード(多段階利用)」が国際競争を勝ち抜く鍵だ。

 井上篤博社長(59)は「震災で県産材の行き場(販路)をなくしてはならないと、県内で事業再開した。岩手の森林資源は豊かで、製品への評価は高い」とし、さらなる業容拡大に意欲を示す。

 近年、大規模風水害が頻発。温暖化が一因とされ、炭素を固定化する森の保全や木製品活用が不可欠だ。例えば、数十センチもの厚い合板を使えば建物は軽くて強く、劣化部材の更新も簡単だ。需要が高まれば木を無駄なく使い、再び育てる循環も促す。「これで(大気中の二酸化炭素量を減らす)カーボンマイナスを導く。国土強靱(きょうじん)化や、豊かな森を次代につなぐ営みも進むだろう」と井上社長は力を込める。

 復興を担う人材育成のためにグループ4社で5年間、毎年4千万円を県のいわての学び希望基金に寄付。14年は平泉町と林業を通じた世界遺産の保全を目指す協定も締結した。合板製品は16年岩手国体で各所で活用され、22年に本県で開催される全国植樹祭でも貢献していく考えだ。

体育賞

釜石で30年余にわたりラグビー一筋に歩み、
選手としてワールドカップ(W杯)に3度出場した
釜石シーウェイブスRFCゼネラルマネジャー

桜庭 吉彦さくらば・よしひこさん(53)

W杯尽力 釜石の「顔」

釜石でのW杯でスタジアムを訪れた観客とハイタッチして触れ合う桜庭吉彦さん。出場経験者として大会を盛り上げた=9月25日

 1985年に新日鉄釜石ラグビー部(現釜石シーウェイブスRFC)入りし、選手や指導者として中心的な役割を果たし続けている。現役時代はワールドカップ(W杯)に3度出場。今回のW杯日本大会ではアンバサダーを務め、広報活動や盛り上げに尽力した。

 秋田県天王町(現潟上(かたがみ)市)出身。秋田工高で全国高校ラグビー大会を制覇。W杯は20歳で選出された87年の第1回を皮切りに95年の第3回、99年の第4回に出場した。身長192センチの体格を生かし、主にロックとして活躍。日本代表キャップ43を数える。

 一方、日本選手権7連覇後に入団した新日鉄釜石では苦心のシーズンが続き、名門チームは2001年、合理化に伴いクラブ化された。その中で02年春にヘッドコーチに就任するまで、体を張ったプレーでチームの精神的な支柱となった。

 その後はスタッフを務め、東日本大震災以降はラグビーを通じた復興の後押しという役目も担った。16年からはゼネラルマネジャー(GM)として、悲願のトップリーグ昇格を目指すクラブを率いる。

 日本中が沸いた今回のW杯。釜石誘致にはOBや市民、ファン、関係者ら多くの後押しがあった。ただ、単に過去の栄光ではなく、その系譜を継ぐチームが今も釜石に根差し、地域とともに挑戦し続けている現実の姿が大きな力となった。

 この地で選手、指導者、GMなどとしての活動期間は30年余に及び、現在の「釜石ラグビーの顔」と言うべき貢献者だ。



第22回全国高校少林寺拳法選抜大会
男子自由単独演武優勝

大久保 来翼おおくぼ・らいと選手(盛岡中央高3年)

重ねた努力 歴史刻む

今夏のインターハイ少林寺拳法男子単独演武で3位に入った大久保来翼選手。春の全国高校選抜大会では初優勝を飾った=8月4日、宮崎市

 3月25日に香川県の善通寺市民体育館で行われた第22回全国高校少林寺拳法選抜大会の男子自由単独演武で初優勝した。県勢としても初の栄冠で、本県の少林寺拳法に新たな歴史を刻む快挙となった。

 男子自由単独演武は1分から1分15秒までの演武時間に、相手を想定した突き、蹴り、かわしなど計6構成を披露し、得点を競った。前日の予選は84人が出場し、257点(300点満点)で通過した。

 16人で争われた決勝は、苦手な体のさばきや連攻撃を組み合わせた「卍(まんじ)」の形を成功。「相手のどこを突いているのか分かるように正確な位置を突いた」という納得の出来で、262・5点をマークした。得点は2位となった地元香川の谷龍一(坂出商)と並んだが、技術度の得点で上回り頂点に立った。

 大きな武器となったのが、6構成の中の1構成目に選んだ「天地拳第二系」。基本中の基本という演武の修練に5カ月かけて取り組んだ。細部まで仕上げた技は高得点となり、予選落ちした昨夏の東海インターハイから一躍、全国トップの座をつかんだ。

 滝沢二小5年の時に親の勧めで競技を始めた。滝沢二中3年時は全国中学生大会で県勢初の入賞となる準優勝を果たした。「少林寺拳法は生まれ持った体格やセンスはいらない。練習した分だけうまくなり、結果がついてくる」と話す努力家。今夏の南部九州インターハイは男子単独演武で3位となった。



皇后杯第52回全日本女子弓道選手権大会優勝
村川 春圭むらかわ・はるか選手(盛岡市役所)

初出場 射抜いた頂点

日々稽古に励む盛岡市弓道場で、全日本女子弓道選手権を制した証しの皇后杯を掲げる村川春圭選手=18日

 9月24日に三重県伊勢市の伊勢神宮弓道場で決勝が行われた第52回全日本女子弓道選手権大会(近的)で初優勝し、皇后杯を獲得した。大会は全日本弓道連盟が主催する最高峰の競技会。初出場での栄冠で、県勢が頂点に立ったのは1987年の高橋良子(盛岡農高教)以来、32年ぶり2人目の快挙となった。

 107人が出場。23日の予選は射形(弓を引いているときの姿勢や形)などを審査する採点制で行われ、4射3中の1433点、8位で通過。20人による決勝(10射)は「周囲の結果は気にならなかった」と自身の射に集中。5射目を外しただけで、ただ一人9中し、女子弓道選手にとって最高の栄誉を射止めた。

 山形市出身。山形西高から岩手大に進み、現在は働きながら競技に打ち込む。中でも国体での活躍は特筆され、2012年の岐阜国体から17年愛媛国体まで6大会連続で成年女子岩手チームの主力として出場し、全大会で入賞を果たした。

 そのうち14年の長崎国体では、菊池ひかり(県立大4年)、瀬川素子(ラッキーバッグ花城薬局)とともに勝ち進み、遠的で優勝。このメンバーは16年の岩手国体まで、5大会連続「不動のメンバー」で、地元国体に向けた強化の流れにも乗り、力を伸ばした。岩手国体でも重圧の中、近的で3位と表彰台に上がった。

 錬士6段。「全国トップレベルの選手の射を多く見て勉強になった。これからの成長につなげていきたい」。盛岡市在住、32歳。



第74回国民体育大会「いきいき茨城ゆめ国体」
弓道成年男子近的優勝

茨城国体弓道成年男子岩手チーム

3者皆中 会心の勝利

茨城国体の弓道成年男子近的で優勝した岩手チームの(左から)高橋昂大、及川睦夫、菊池治の3選手=7日、水戸市

 7日に水戸市の茨城県武道館弓道場で決勝が行われた第74回国民体育大会弓道成年男子近的で初優勝を飾った。本県成年男子の国体制覇は近的、遠的通じて初めて。決勝は12射皆中という見事な勝利だった。

 菊池治(おさむ)(プラム工芸)、及川睦夫(むつお)(一関LIXIL製作所)、高橋昂大(こうだい)(リコーインダストリアルソリューションズ花巻事業所)の3人で臨んだ。5日に24チームによる予選が行われ、24射21中(菊池7中、及川7中、高橋7中)、3位タイで準々決勝に進んだ。

 1日置いた7日は、準々決勝(12射)で愛媛に10-8で勝利。続く秋田との準決勝(同)は激戦となった。12射を終えてともに10中と譲らず、3射ずつの競射に突入。これも点差がつかず、4回繰り返した末に11-10で決着をつけた。

 決勝(同)は、準決勝で12射皆中を演じた岡山と対戦。ここで3人は完璧な射を見せる。張り詰めた空気の中、それぞれがひたすら集中し、誰も一度も外さず12射を終える。岡山は3射目に2人が外し、12-10で栄冠をつかみ取った。

 44歳で国体初出場の及川は最終日、16射皆中という会心の内容。「自分に負けないように一本一本自分の射をしっかりやること」。無欲、無心の射を貫いた。

 高橋は黒沢尻工高3年時の埼玉インターハイで個人王者になった実績の持ち主。29歳の若手が冷静に的を捉え続け、チームをけん引した。47歳のベテラン菊池はメンバーをまとめながら実力を発揮した。



第74回国民体育大会「いきいき茨城ゆめ国体」
アーチェリー成年女子団体優勝

茨城国体アーチェリー成年女子岩手チーム

熱戦を制し返り咲き

茨城国体のアーチェリー成年女子団体で優勝した岩手チームの(左から)川渕真弓選手、小野寺まどか選手、鈴木啓太郎監督、岩渕萌選手=6日、茨城県つくば市

 4~6日に茨城県つくば市の茎崎運動公園多目的広場で行われた第74回国民体育大会アーチェリー成年女子団体で2年ぶり2度目の優勝を果たした。

 アーチェリーの成年女子は2017年の愛媛国体で頂点に立ち、種別、種目を通じて本県初の国体制覇を成し遂げた。翌18年の福井国体は6位入賞と連覇を逃したが、今大会は3人が持てる力を発揮して勝ち上がり、日本一に返り咲いた。

 メンバーは川渕真弓(ぴょんぴょん舎)、小野寺まどか(近畿大3年)、岩渕萌(雫石町役場)の3人。24チームで争った4日の予選は1748点(川渕602点、小野寺600点、岩渕546点)で9位。苦しみながら16チームによる決勝トーナメントに進んだ。

 5日の決勝トーナメント1回戦は滋賀に6-0で完勝。準々決勝は予選トップだった広島を5-3で破った。準決勝は岡山と対戦。先行しながらも後半に追いつかれ、シュートオフにもつれ込んだ接戦を制し、5-4で決勝進出を決めた。

 決勝は翌6日。五輪メダリストら実力者をそろえる大阪に挑んだ。4-2で迎えた最終第4セット、川渕(27)が強風の中で2本目に10点満点を射抜いて引き分けに持ち込み、5-3で熱戦に決着をつけた。

 先陣を切った小野寺(21)は成年初出場ながら高得点を連発。国体は通算7度目の岩渕(24)も集中力を発揮し、チームに貢献した。唯一2年前の初優勝を知る川渕は大黒柱らしい勝負強さを見せた。



知的障害者ラグビーの草分けとして半世紀にわたり活動
社会福祉法人岩手更生会

障害者支援施設 緑生園(盛岡市)

楕円球追い心身磨く

ラグビーで心身を鍛え、社会参加を広げる緑生園の園生とOB。施設の名前にある緑を基調としたジャージーだ=14日、盛岡市

 開設から4年後の1970年にラグビーを活動に取り入れ、知的障害がある園生が心身を鍛えることで成長や自立につなげ、交流試合を通じて社会参加を広げている。ラグビーは施設や園生の生活の柱としてすっかり定着している。

 前回の岩手国体のラグビー競技に招待されたのがきっかけとなった。「ボールを持ったら一歩でも前へ」というラグビー精神に着目。協調心、闘志や根性、礼儀なども学ばせようという狙いもあった。

 楕円(だえん)球を使ったボール遊びから始めた。苦労しながらもパスやスクラムの練習、体力づくりに励み、72年に盛岡消防本部チームと初の対外試合を実施。翌73年には県ラグビー協会に加盟した。知的障害者施設のチームが協会登録したのは全国でも初めてだった。

 現在、練習は毎週木曜日の朝約1時間。日曜日にはOBチームと合同練習で汗を流し、充実した休日を過ごす。ほかの日のトレーニングも大切な日課だ。

 ラグビー交流も多彩に繰り広げる。74年に新日鉄釜石ラグビー部との「対戦」が実現。その後も選手がたびたび訪れ、指導や触れ合いの場が持たれた。県内外の社会人チームとの交流試合は現在も続き、ニュージーランド遠征も経験。今秋のワールドカップ(W杯)期間中は、来県したナミビアの少年チームと親睦を深めた。

 鈴木淳施設長は「体をぶつけ合うと(園生も対戦相手も)同じラグビー仲間として互いに理解が進む」と活動の意義を語る。