啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」


輝く言葉 10人受賞
 岩手日報随筆賞贈呈式 

 岩手日報社主催の第14回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」贈呈式は13日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者、来賓、歴代受賞者ら約60人が出席した。東根千万億(あずまねちまお)社長が最優秀賞の奥州市胆沢の遠藤カオルさん(66)に正賞のブロンズ像「星の雫(しずく)」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞の北上市の川辺学さん(60)、紫波町の古川寛子さん(36)、矢巾町の本田香織さん(21)に賞状と賞金5万円、佳作の盛岡市の平沢和志さん(65)、金ケ崎町の横田恵子さん(75)、松本幸子さん(63)、矢巾町の北林紗季さん(19)、盛岡市の前沢梨奈さん(35)に賞状と賞金3万円を贈呈。20歳未満が対象の奨励賞は、花巻市東和町の梅村琴音さん(15)=一関一高1年=に賞状と図書カード(1万円相当)を贈った。

 東根社長は「幅広い世代から受賞者が選ばれたことは、石川啄木や宮沢賢治から長年受け継がれてきた岩手の文芸のすそ野の広がりを感じさせ、うれしく思う」とたたえた。達増知事(代読)、真下卓也IBC岩手放送取締役放送本部長、選考委員長の詩人城戸朱理さんが祝辞を述べた。

 最優秀賞の遠藤さんは「奥州湖を巡る3歳の頃の思い出を書き残したくなり、父の話したこと、母から聞いたことを現在に織り交ぜながらつづった。自分の気持ちを結びの3行に込めた」と思いを語った。

 今回の応募数は120編。予備選考を経て城戸さんと作家平谷美樹さん、エッセイスト千葉万美子さんが最終選考した。

【写真=第14回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した(前列左から)優秀賞の本田香織さん、川辺学さん、最優秀賞・遠藤カオルさん、優秀賞・古川寛子さん、佳作・平沢和志さん、(後列左から)佳作の前沢梨奈さん、松本幸子さん、横田恵子さん、北林紗季さん、奨励賞・梅村琴音さん=13日、盛岡市・盛岡グランドホテル】

(2019.7.14)


第14回岩手日報随筆賞決まる
 

 岩手日報社主催の第14回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、奥州市胆沢小山字北大畑平、パート遠藤カオルさん(66)の「五月のふる里」が選ばれました。優秀賞は、北上市二子町鳥喰、川辺学さん(60)の「手紙」、紫波町平沢字油田、会社員古川寛子さん(36)の「さんさ踊りの夏が来る」、矢巾町又兵エ新田、岩手医大2年本田香織さん(21)の「もりおか」の3編です。

 佳作は、盛岡市八幡町、平沢和志さん(65)の「立丸峠」、金ケ崎町西根表小路、横田恵子さん(75)の「すこやかに老いる」、金ケ崎町永沢大谷地、農業松本幸子さん(63)の「さくら」、矢巾町南矢幅、岩手大2年北林紗季さん(19)の「私とコンビニと星の王子さま」、盛岡市上田1丁目、パート前沢梨奈さん(35)の「『ただいま』の笑顔」の5編。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は、花巻市東和町南成島、一関一高1年梅村琴音さん(15)の「同じものを見るということ」が選ばれました。

 贈呈式は13日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞は正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞は賞状と賞金5万円、佳作は賞状と賞金3万円、奨励賞は賞状と図書カード(1万円相当)がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は120編。社内の予備選考を経た13編について、選考委員の詩人城戸朱理さん(委員長、神奈川県鎌倉市、盛岡市出身)、作家平谷美樹さん(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2019.7.6)


第14回啄木・賢治のふるさと
「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 
 第14回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」は120編の応募があった。選考委員の城戸朱理さん、平谷美樹さん、千葉万美子さんが6月10日、盛岡市の本社で選考会を開き、予備選考を通過した13編から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編と、20歳未満の応募者から奨励賞1編を選んだ。最優秀賞と優秀賞を紹介する。

《選評》 題材の多様さ際立つ

 文芸における随筆というジャンルは欧米ならば、十六世紀フランスのミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』を嚆矢(こうし)とするが、『エセー』が、十七世紀のデカルトやパスカルといった哲学者に影響を与えたことからも分かるように、哲学書である。

 つまり、欧米でエッセイと言うと、主に思索や思想を綴(つづ)った散文を指すのだが、日本における随筆というジャンルは、はるかに自由度が高く、どんな題材を選ぶか、どう書くかは、すべて作者に委ねられている。そこに随筆の難しさがある。

 今回の選考は難航した。候補作は、いずれも魅力的な題材を選び、文法上の間違いなども目につかなかったが、構成に問題があったり、一部に不自然な表現があったりしたため、選考委員の票が完全に割れてしまったのである。

 そんななかで、選考委員全員が何らかの賞に推した遠藤カオルさんの「五月のふる里」が最優秀賞に決まった。

 両親とともに訪れた奥州湖。湖底に沈んだふる里。幼年期の記憶と失われた故郷を抑制の効いた文章で語る見事な作品である。

 ただ、冒頭が川端康成『雪国』の名高い書き出しの一文と似ているのは好ましくないという指摘があった。

 優秀作に関しては、論議を重ねても決まらず、各選考委員が一篇(ぺん)ずつを選ぶという異例の方法で決定した。

 千葉万美子委員選が、川辺学さんの「手紙」。十五年前に亡くなった妻が子供たちに、そして作者に残した手紙をめぐる感動的な作品である。

 平谷美樹委員が選んだ古川寛子さんの「さんさ踊りの夏が来る」は、盛岡の夏祭としてすっかり定着したさんさ踊りの舞台裏を描いて、興味深い。

 本田香織さんの「もりおか」は、私が選んだ。高校時代の不安感や盛岡に対するアンビバレンツな感情。表現するのが難しい心の揺らぎを清新な感覚で描いたところを評価した。

 それぞれ問題もあるが、モチーフが素晴らしい。

 佳作のみなさんについても同様で、今年は題材の多様性が際立っていた。それを生かす構成や表現を、もっと考えてもらいたいと思う。

(城戸朱理選考委員長)


最優秀賞

五月のふる里

遠藤カオル

 長いトンネルを抜けると、新緑に包まれた奥州湖が現れた。深い緑色。若葉の緑が溶け込んだような色だ。その湖面が五月の日差しを浴びて光っている。

 湖は、かつて集落のあった山間(やまあい)へ細く延びている。昭和二十八年に完成した石淵ダムがあった場所でもある。わたしはその集落で生まれ、両親と三歳まで過ごした。石淵ダムは六十年後、平成二十五年に完成したダム、奥州湖の湖底に沈んだ。

 その年の五月のはじめ、めったに出かけない両親を連れて奥州湖にきた。父も母も高齢になり、歩くこともままならないが、ダムを見に行こうと誘うと、すぐに出かける支度を始めた。

 両親は奥州湖に着くと、車の窓から身を乗り出すようにして湖面を見入っていた。

 石淵ダムから奥州湖へ。その陰には、二度、移転を余儀なくされ、住み慣れたふる里を後にした人たちがいる。わたしの両親もそうであった。

 石淵ダム建設の時は補償金が少なく、先を悲観して自らの命を絶った人もいたという。親と畑仕事をしていた若い女性の頭に、発破で飛んできた岩があたり、命を落としたとも聞いている。

 開け放した窓から、初夏の風にのって青葉の匂いが薫る。つぶ沼方面へとハンドルを切る。車は木々の枝が覆う狭い道に入り込んだ。木洩(こも)れ日の道を下りて行くと、急に視界が開け、奥州湖西側に出た。水辺を走り、奥州湖大橋を渡り、ふる里の集落の地名がついた下嵐江(おろせ)展望広場に車を停(と)めた。

 広場に立つと、対岸の「猿岩」が目の前に迫る。幼いころ遊びの手をとめ顔を上げると、猿岩がいつも目の前にあった。岩が猿の顔に似ているのでそう呼ばれている。その頂上に神社の奥宮が祀(まつ)られ、猿岩の雪椿(ゆきつばき)が咲くころ、豊作を願う祭りが行われる。

 三歳のころ母に連れられ、大勢の人と急な山道を這(は)うようにして上った。わたしの背丈くらいの高さに、真っ赤な雪椿の花がつやつやした葉の間から顔を出して辺り一面に咲いていた。この花の枝を田んぼの水口に挿し、豊作を祈った。家族の健康や、山仕事の安全を願い、神木として大切にされていた。

 展望広場を西に少し歩くと、小さな島が見えた。三年前に両親と来たときと同じだ。そのとき父は島を眺めながら言った。

 「ここは森だった。手前に畑と田んぼ、家があった」

 田んぼは小さく、畳一枚か二枚分ほど。鍬(くわ)を使い、一枚ずつ地形に合わせて作るため、魚の鱗(うろこ)に似て鱗田(こけらだ)と呼ばれた。春が遅く、秋が早くやってくるため、出穂しても実が入らない。米は三年に一度くらいしか収穫できなかった。それでも、両親はあきらめずに米作りを続けてきた。

 牛を飼い、炭焼きをして生計を立てた。牛は三頭ほど。五月から九月末ごろまで山に放牧した。集落の牛を何十頭も一緒に山に放し、月に二回ほど二、三人のグループに分かれて見回りをした。気温が低くアブがいないので刺される心配がない。牛は草を食べながら移動して秋田県境まで行ったという。

 「ビンカケ沢」という所に炭焼き小屋があった。遊びに夢中になっていたわたしは、小屋の上の斜面から逆さまに落ちた。その瞬間、父が笑顔で両手を広げて待っているのが見えた。わたしは父の腕の中にすとんとおさまった。この記憶は今も鮮明に蘇(よみがえ)り顔がほころぶ。

 ビンが欠けるくらい沢の水が冷たいのでビンカケ沢と呼ばれる、そう思っていた。大人になって、この思い出話をしながら母に訊(き)いてみると、母が子どものころ、祖母から聞いた話をしてくれた。

 「秋田越えをして仙北街道を往(ゆ)き来する女の人たちが沢の水を鏡にして、鬢(びん)のほつれを直したことからそう呼ばれた」

 ビンカケ沢がどの辺にあるのか、父に訊くと、父は山際に目をやった。太い杉が三本立っている所を見つけ、おら家(え)の杉だと言った。その先を少し入った所に炭焼き小屋があったという。斜面を上ると、細いくぼみが森の奥へと続いていた。水は流れていないが、ここがビンカケ沢に違いない。近くに石碑が立ち、「仙北街道入り口」と記されている。

 足元の杉の木の根元にすみれ草が咲いている。うぐいすのなめらかな一声が、炭焼き小屋のあったほうから聞こえてきた。

 両親と一緒に奥州湖をめぐり、この展望広場に来たのは平成二十八年の五月が最後になった。父はその年の稲穂の波がそよぐころ八十九歳で亡くなった。母は脳塞栓(そくせん)で翌年倒れ、言葉を交わすことができないまま昨年、秋の取り入れが終わるころ九十三歳の生涯を閉じた。

 そうして、独り五月のふる里に会いにきた。

 見上げる五月の空は青く、澄み渡っている。

 湖面から初夏の陽光がはね返り光っている。

《横顔》 「流れるように」創作

 「胸にあったものをやっと形にできた。今はそれが一番うれしい」

 緑が濃さを増す山々に囲まれた奥州湖。その水底に眠るふるさとの面影を追い、目を細めた。

 ふるさととは、父佐々木之男(ゆきお)さん、母タカさんと3歳まで過ごした旧若柳村の下嵐江(おろせ)地区(現奥州市胆沢若柳下嵐江)。石淵ダム、胆沢ダム建設のために住民が移転を余儀なくされた集落だ。毎年、雪解けを待って両親を誘い出し、ダム周辺を巡るのが好きだった遠藤さん。父母の死後、一人訪れた今年5月の奥州湖は、若葉が揺らぎまばゆい光に包まれていた。寂しさが薄れ「親と私の原点を書きとめたい気持ちがあふれてきた」という。

 幼少期に離れた土地だが「一番のふるさとは下嵐江」と言い切るほど思い入れは強い。記憶は驚くほど鮮明で、山のツバキのしたたるような赤さや母の背で感じた風の心地よさを、今もありありと思い出す。

 冬は雪に閉ざされる下嵐江での生活。移転先でも田畑を開墾しながら暮らした父母の人生は苦労なしには語れないはずだが「いつも楽しげで、つらそうな顔は見たことがない」。自然の懐に抱かれて逆らわず、大きな流れに委ねるような穏やかな生きざまは、ふるさとの境遇にどこか重なって見える。

 自身は嫁ぎ先の奥州市水沢で4男1女を育てた。育児と仕事の合間、ふと目にした文章教室に通い始めたのが2002年。趣味で新聞投稿を楽しんでいたが東日本大震災を機に日常のはかなさを知り、真剣に文章に向き合う機会が増えた。11年、岩手日報随筆賞で佳作を受賞した。

 過去と現在を交錯させながら思い出を語った今回の作品。「推敲(すいこう)の時間もなく、締め切り前日に一気に書き上げた」と明かし「受賞はびっくり。親が書かせてくれたのかな」と笑う。

 書くことで見えるものがある。短歌や俳句を含め、文字で表現する楽しさは追求したいという。「感じるまま、流れるように」を人生と創作の原点に据える。

 【えんどう・かおる】 水沢商高卒。奥州市の診療所などで働きながら5人の子を育て2014年に両親の介護を開始。現在はパート。同市胆沢小山北大畑平。66歳。旧若柳村生まれ。


優秀賞

手 紙

川辺 学

 「かなわないなあ。本当に」。病室の前で思わず呟(つぶや)いてしまった。妻の入院は長くなっていた。毎日帰りに病院に寄るのが日課になっている。息子と娘は家で待っている。妻の病状は思わしくない。主治医の口からは心が軽くなる言葉は、数カ月聞くことはなかった。それでも妻と向かい合う時は、できるだけ平静を装うように努めてきたつもりだった。

 それなのに、それなのに…だ。

 帰り際に、妻はまるで明日の天気でも話すように、「これお願いね。こっちがお兄ちゃんの分で、こっちがちびちゃんの分ね。それにこれはね、二人の結婚式の時に渡してね」。十通ほどの手紙の束である。「え、どういうこと」と僕。「誕生日に渡してちょうだいね。二人が二十歳までね」。穏やかな表情の妻。でも、その目は遠くを見ているようだった。「わかった」と言ったかもしれない。手紙を受け取りいつも通り「また明日」と言って部屋を出たような気もする。廊下に出てからわれに返り思わず「かなわないなあ。本当に」と手紙を見つめていたのだった。

 病状が重篤になり自宅療養をするため看護休暇を取り妻と過ごした。仕事人間の僕は結婚以来、初めて妻や家族のためだけの時間を過ごした。そんな日々は長続きしなかった。

 家族に囲まれて妻はふっと息を止めた。葬儀は静かに行われ、僕は深い悲しみに沈み、ある思いが棘(とげ)となって胸に突き刺さり、痛みを感じていた。

 子供たちとの生活が始まった。妻から見えていた家族の風景が僕の日常となっていた。息子の誕生日になり、簡単な誕生会の後「お母さんからの手紙だよ」。息子は僕の前に正座し受け取った。そうだ、妻は子供たちに小遣いをあげる時にこうしていたのだった。「ハイ今月のお小遣いです」と妻。子供たちは「ありがとうございます」と受け取る。そんな場面が目に浮かんだ。息子は手紙を受け取ると自分の部屋に入り出てこなかった。

 娘は高校生になり忙しい生活となった。素直で順調に育っているが、親から離れていくことも感じていた。母親がいたならと思う事も感じる日々であった。亡くなる前に妻が「お兄ちゃんは大丈夫。でもね、ちびちゃんは心配なのお願いね」と話していたことを思い出した。それでも、息子と同じように誕生日には「お母さんの手紙だよ」に「ありがとう」と受け取り、自分の部屋に入っていく。

 妻のおかげで子供とつながっていると感謝する僕である。また少し棘が胸に刺さってきた。

 僕は手紙の中身を見ることはなかった。妻から子供たちへの思いのこもった手紙であり見てはいけないような気がしていた。

 息子は二十歳になり誕生日の手紙は終わった。娘も大学生になり一人暮らしを始めた。手紙が二通残った。郵送する時に一度だけ読んだことがある。それは手紙というよりはメッセージカードだった。成長を喜び、少しはしゃいで、明るい言葉で娘を祝福していた。

 妻は病室にいながら時を超えて、子供たちの成長を横で優しく見守り声をかけていた。行間に、幾千万の言葉や思いを押し隠している妻の手紙は、子供たちの胸に響いてきたのだろう。「かなわないなあ。本当に」

 突然だった。大地が轟音(ごうおん)とともに生き物のように揺れ動いた。東日本大震災だ。家は半壊となった。崩れ落ちた壁や斜めの柱。夜は停電で暗闇となる。隣県で働く息子、遠く離れた娘の安否が気になるが連絡が取れない。電気が通り息子のすぐ近くの空港で巨大な津波が全てを押し流す映像。関東では放射能の影響という報道。家族の安否がわからないことが心を凍らせる。無事を願った。電話でもいいメールでも手紙であっても…。妻に願った。

 しばらくして無事の連絡が二人から届いた。

 数年が過ぎ、息子は結婚することになり最後の手紙を渡した。「はい、これ。お母さんから最後の手紙だよ」。僕は子育てを半分終えたようで、ほっとした気になっていた。

 娘は母親によく似てきた。夢の実現に目覚めて日本中を、そして今は世界を駆け巡っている。妻が心配していたどこか遠慮がちで自分を抑えてしまう性格はもうみられない。

 妻が亡くなり十五年が過ぎた。お世話になった方に手紙を書こうと、古い便箋を開くと懐かしい文字が現れ固まった。妻が書いたものだった。最後のページに「今まで本当にありがとう。私と結婚してよかった? 幸せだった? それだけが気がかりです」と書いてあった。妻は僕と同じ棘の痛みをずっと前から感じていたのだと知る。かなわないなあ、本当にね。手紙と話す僕がいた。

 僕の手元には娘に結婚式で渡す手紙が一通だけ残っている。何年か後の未来で、君はこちらをのぞき込んで手を振りながら、ウエディングドレスの娘の隣で微笑(ほほえ)んでいるんだね。

 随分と遅れて届いた妻の手紙を手にして、棘の痛みはだいぶ、和らいだ気がしている。

《横顔》 愛妻の優しさ胸に

 15年前に亡くなった愛妻への思いを約1カ月かけて作品にまとめた。「悲しいことを前面に出すのではなく、妻の優しさや温かさ、軽やかさ、妻を要として家族がつながっていること、手紙を通して感じていることを表現した」と振り返る。

 中学校教員として北上・南、平泉の各校などに勤務し、定年を前に早期退職した。応募は退職後に挑戦しようと実践していることの一つ。「日々の暮らしの中で心に引っかかることに思いを乗せて文章にまとめてみると、今まで気づかなかった自分が見えてきて面白さを感じる」と、書くこと自体が続ける力になっていると感じる。

 応募は2度目。昨年は最終選考に残った。「文芸県である岩手で認めていただいたことは喜び。この賞を道しるべとして、自己表現の手段として書くことに挑戦していきたい」と意欲を見せる。

 北上市二子町。同市出身、60歳。


優秀賞

さんさ踊りの夏が来る

古川 寛子

 11年前の8月1日、18時。私は盛岡市役所正面の中央通に立っていた。

 紅(あか)い口紅を塗った口角を上げ、笑顔を張り付けてはいたが、ポリエステルの浴衣で包まれた体はひどく熱く、立っているだけで汗がにじんでくる。アスファルトが熱を反射し、空気と湿気を帯びて体にまとわりつく。

 踊り切れるだろうか?

 緊張の中、通りの向こうを見つめていた。

 その光景を思い出したのは、観劇チケットを購入しようと盛岡劇場に立ち寄った時だった。

 「二〇一九年 ミスさんさ踊り募集」

 華やかな浴衣を着た若い女性たちが、はつらつとした笑顔を見せているポスター。

 かつて、私もそのひとりだった。

 ミスさんさは他の「地方ミス」とはちょっと違う。ほぼアスリートなのだ。コンテスト通過後、平日の18時から20時までみっちり2カ月練習がある。さんさ踊りの動きは思いの外激しい。膝や腰を故障する人も少なくなく、浴衣の下にスポーツ用サポーターを着ける場合もある。

 踊った後には他の地方ミス同様スピーチをする。ここで息が上がるようではいけない。とにかく体力勝負なのだ。

 とはいうものの、私自身は運動部に所属したこともなく、学生の頃は教室の隅で本ばかり読んでいた。体力に自信がないばかりか、ミスコンに参加するような華やかな女性には、同性ながら気後れし、劣等感さえあった。応募しておきながら、コンテスト通過後も常々「場違いだ」と思っていた。

 しかし、顔を合わせてみると、選ばれた5人は思ったより気が合った。年の差も2~3歳程度で、全員社会人経験があるからか、適度に距離感もある。私が最年長ではあったが、皆「ちゃん付け」で呼び合い、それは今でも続いている。

 就業後行われる毎日の練習は体力的に厳しく、勤務中に眠くなることもしばしば。だが、練習終了後には商工会議所(練習場所)のロビーで和装に合う化粧や、着崩れしにくい着付けを模索したりしながら楽しく過ごした。

 ステージやパレードでは、師事した伝統さんさ団体の顔に泥を塗らぬよう、一糸乱れぬ踊りをしようと息を合わせた。

 PRのために遠征する時には、衣装一式の入った重いスーツケースを引きずりながら、どんなスピーチをしようか、自由時間には何をしようかとワクワクしながら相談し合った。スピーチには、私の本業である営業の仕事が少なからず役に立った。

 任期中は毎週のようにどこかのステージに上がるが、さんさ踊りの仲間たちと新しいことに挑戦するのは楽しかった。

 社会人になると友人をつくることは急に難しくなる。自宅と職場の往復だけで1日が終わる人も少なくないだろう。私もさんさ踊りがなかったらきっとそうだった。そう思うと、ミスさんさは社会人になってからの部活のようなもので、私の第2の青春だった。

 しかし、ここ数年は2度の出産を挟み、長く所属しているさんさ踊り有志団体にも満足に参加できなかった。あの頃一緒に踊っていたミスさんさの友人たちも結婚や出産、就職などでさんさ踊りを離れた人が多い。練習に行っても見慣れた笑顔に会えず、少し寂しいというのも足が遠のきがちな理由のひとつだ。

 だが今年は5歳の娘が「太鼓なら出る」と言う。団体のメンバーが子供用の玩具太鼓を作ってくれたのがお気に召したらしい。

 久しぶりに練習会場の体育館に足を踏み入れた。耳慣れた太鼓の音。練習をまとめている若い女性はミス太鼓のOGだろうか。声を張り上げて頑張っている。

 私は動き回る子供たちを連れているので、列の一番後ろについて練習を始めた。

 ダンコンダダスコダン。

 太鼓の音で自然に体が動き出す。その時、また11年前のパレードを思い出した。

 私は岩手公園側の沿道に接しながら踊っていた。開始前は踊り切れるかと不安に思っていたのに、沿道の声援を受けるとその不安は吹き飛んだ。張り付いた緊張の笑顔は解け、自然と笑顔が出た。腕が広がる、跳ねる、回る…。最終地点では浴衣が絞れるほど汗をかいていて、ペットボトルを2本空けても熱がひかないと言って笑い合った。爽快感。街とひとつになっている一体感。太鼓が地鳴りのように響いている盛岡の夏の夜。

 今年は子供を連れ、11年前とは違う気持ちで太鼓が響く中央通に立つのだろうか。

 今年もミスさんさたちは、美しくしなやかな踊りと笑顔で盛岡の短い夏を彩るだろう。

 私もパレードの後方からそっとエールを送るつもりでいる。

《横顔》 育児の合間に執筆

 盛岡の夏祭りを彩る「ミスさんさ踊り」として活動した経験と、初めて参加する5歳の娘を通して感じた祭りの魅力を生き生きと記した。ミスの活動は8月の祭り本番だけでなく、国内外で1年間にわたる。「さんさ踊りが身近な人にも、そうでない人にも、こういう人がミスだったんだなあ、と親しみを持ってもらえたらいいな」との気持ちを込めた。

 盛岡市内の企業に勤める会社員。作品は仕事と子育ての合間に書いた。書きたいことは頭にあったので、書き出してからは3日間だったが「清書は子どもたちが寝ている時でないとできないので、早起きして書いたのがつらかった」という。

 素朴で味わいのある南部紫根染を愛好し「賞金で帯が買えるかも」というのが応募の動機。受賞の知らせにも「実感は今もないです」と素直に喜びを表す。

 紫波町平沢。同町出身、36歳。


優秀賞

も り お か

本田 香織

 冬、本州で一番気温が下がるのが盛岡市だと知ったのは東京に出てからだった。東京の冬は一瞬で、気が付いたら終わっている。渋谷駅西口から徒歩三分。桜丘町の入り口を毎年華やかに創り出す桜並木はもう少しで完成するだろう。

 「盛岡まで」

 みどりの窓口でそう告げただけで、なぜか胸が締め付けられた。昨日、二年間の浪人生活を終えることができた。来月から地元、岩手の医大に進学する。高校時代の成績は悪かった。私が医学科に進むなんて誰が想像しただろう。片道で済む新幹線のチケットを財布にしまう。今日が東京で過ごす最後の夜だ。山手線に乗り込んで、新宿で地下鉄に乗り換える。四駅で四谷三丁目に着く。かなりさびれている駅だ。工事中と思わしきブルーシートがそこら中にあって、気を取られているうちに階段で滑りかけた。手すりの力を借りて立ち上がると、笑っていないようで笑っている彼の顔が目の前にあった。同じ電車だったよ、と表情を変えずに彼は呟(つぶや)く。同じ予備校で同じく二年間過ごした彼は、先日都内の医学部に合格した。お互い合格してから顔を合わせるのは初めてだ。おめでとう、とお互い口にし合う。

 近くのバーに入って、軽く飲みながら世間話をした。私も彼も、必死になって頑張った浪人生活だった。こうやって飲むのは、初めてのことだ。

 「どうして、高校の時勉強しなかったの」

 真面目なのに。そんな言葉を付け加えて、彼は私に尋ねた。

 私が通っていた高校は、伝統の多い高校だった。県内一の進学実績を誇るが、バンカラと呼ばれる特殊な「應援團」が存在し、入学した途端何十曲もの応援歌を覚えなくてはいけなかった。明治時代に創られたそれらは古典的なものが多くて、フレーズ一つ暗記するのも一苦労。おまけに應援團の幹部は女子と見間違うほどの長髪をなびかせていたし、彼らは何世代も受け継がれているぼろぼろの制服と高下駄(たかげた)、バッグ、という奇抜な姿で日常生活を送る。二時間かけて県南の方から通学していた私にとって、それら全てが「伝統」の一言で片づけられてしまう盛岡という土地が不思議でならなかった。高校生活に息苦しさを覚え始めたのも同じ頃だったように思う。学年一位の同級生とは、才能が違うのだと気が付いてしまった。次第に学校を休みがちになり、勉強にも手が付かなくなった。私は弱かったのだと思う。思えばあれが人生で初めての挫折だったのかもしれない。努力ではどうにもならない事は、思ったよりたくさんあるのだと知った。理想の自分と、現実の自分とのギャップに耐えられなかった。卒業式の日、校歌すら歌えない自分に気が付いて、思わずため息をついた。理由はうすうす感づいていた。好きになれなかったのだ。応援歌も、高校も、盛岡も。

 一気に話し終えた私に、「つらかったこと聞いてごめんね」と彼は優しい笑顔で言った。目尻だけきゅっと動くのが彼の笑顔なのだとようやく気が付いた。お元気で、とバーの前で別れた後、彼のことが好きだったのだと唐突に気が付いた。

 東北新幹線の車掌さんはきつい訛(なま)りを隠し切れないようで、駅名を告げるアナウンスには聞き覚えのあるアクセントがちりばめられていた。二年ぶりの盛岡駅は、改装が進んでいて出口を見つけるのに手間取ってしまう。何とか駅を出て、かつての通学路を歩く。ガラス張りの校舎に入り、職員室へ向かう。合格を伝えると、担任の先生は泣いてしまった。他の先生方も口々におめでとう、と言ってくれた。成績の悪かった私は、先生たちには嫌われているものだと思いこんでいた。こんなに喜んでもらえるなんて、想像もしていなかった。高校時代の思い出と、浪人時代の感情が混ざり合って、胸にこみ上げてくるものがあった。高校生の頃、自分にレッテルを張っていたのは紛れもない私自身だったのかもしれない、とふと思った。

 高校の三階には大きなバルコニーがある。職員室を出て、足を運んでみた。ここからは美しい岩手山を見ることができる。そっと窓を開けてテラスへ出る。

 もし時間があったなら、嗚咽(おえつ)交じりの泣き声を自分のものだと認めることができたのかもしれない。けれど、気が付かないふりをした。きっと、いろんな感情が湧き上がる前に目をそらすことがいつの間にか癖になっていたのだろう。露台の手すりに寄りかかって、深呼吸をする。屋上から聞こえてくる応援歌にふんだんに使われるもりおか、という四文字にまた心が震える音がする。狂おしいほど懐かしい響きが、そこに落ちていた。

 盛岡、悪くないな。そんなことを思う。

 ただいま。もりおか。

《横顔》 文芸への思い再び

 東京での大学浪人生活を経て、高校時代は好きになれなかった盛岡という街の良さに気づいた心の変化をつづった。受賞の報に「信じられない気持ちでいっぱい。幼いころから書くこと、読むことをずっと好きでいてよかった」と、助言を受けた大勢の人たちに感謝する。

 盛岡一高では文学研究部に所属。現在は、岩手医大医学部の2年生。予備校生活で文芸から一度離れたが、大学の授業で接する機会があり、再び書きたいという気持ちが強くなった。随筆賞は今回が初めての応募。作品は、複数の友人に読んでもらって構成などを見直し、半年以上かけて完成させた。

 「文芸が好きという気持ちと、支えてくれた方への感謝を忘れずに、ゆっくりと自分のペースで続けていきたい」。将来、医師になってもずっと文芸に携わることを思い描く。

 矢巾町又兵エ新田。奥州市水沢出身、21歳。

第13回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 国崎 萌子さん(盛岡) 「サイダー」

  優秀賞 熊谷千佳子さん(盛岡) 「消灯私邸」
      菅原 弘行さん(花巻) 「母ちゃんのリヤカー」
      圃田 百恵さん(一戸) 「たったひとつの恩返し」

第12回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 石川 啓子さん(奥州) 「父の作品」

  優秀賞 多田 有希さん(盛岡) 「痛みと生きていく」
      熊谷千佳子さん(盛岡) 「魔法のことば」
      山口トヨ子さん(花巻) 「のんべぇたちの攻防」

第11回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 吉田 澄江さん(盛岡) 「ワレモコウ」

  優秀賞 羽柴 香子さん(一関) 「父」
      熊谷 奈南さん(盛岡) 「石割桜」
      松本 幸子さん(金ケ崎) 「ねぎの花のように」

第10回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 高橋 久美さん(花巻) 「四月にツイート」

  優秀賞 高橋 政彦さん(盛岡) 「吸殻エレジー」
      上山 明美さん(田野畑) 「母が残してくれた、一枚の写真」
      武田 穂佳さん(滝沢) 「しるし」

第9回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 小川 クニさん(雫石) 「ゆりかごごっこ」

  優秀賞 佐藤 洋子さん(奥州) 「アゲハチョウ」
      高橋 久美さん(花巻) 「素敵な板挟み」
      山口トヨ子さん(花巻) 「おもかげ」

第8回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 田辺るり子さん(盛岡) 「たいせつな場所」

  優秀賞 稗貫 イサさん(花巻) 「結びの宿」
      太田代 公さん(北上) 「輪の中へ」
      武田 洋子さん(奥州) 「伝える喜び」

第7回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 工藤 玲音さん(盛岡三高) 「春の雨」

  優秀賞 伊藤由紀子さん(盛岡) 「川岸」
      吉田 澄江さん(盛岡) 「雲よ」
      中村キヨ子さん(宮古) 「父の講義」

第6回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 太田 崇さん(久慈) 「父の行程表」

  優秀賞 石川 啓子さん(奥州) 「引き継ぐ」
      大沼 勝雄さん(盛岡) 「津軽山唄」
      稗貫 イサさん(花巻) 「父の匂(にお)い」

第5回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 渡辺 治さん(雫石) 「一本の古クギ」

  優秀賞 鈴木 紀子さん(花巻) 「おやすみ、大好きなお母さん」
      沢内 建志さん(宮古) 「命の誕生」
      平松真紀子さん(釜石) 「熊さんの杉」

第4回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 小野まり子さん(金ケ崎) 「牛飼い、再び」

  優秀賞 神田由美子さん(奥州・水沢) 「花の町にて」
      佐藤 明美さん(盛岡) 「アルバム」
      吉田 真人さん(盛岡) 「ロレッタ」

第3回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 野中 康行さん(盛岡) 「リッチモンドの風」

  優秀賞 井手 厚子さん(盛岡) 「妹」
      上柿 早苗さん(盛岡) 「祈るとき」
      佐藤 勇子さん(金ケ崎) 「母の置土産(おきみやげ)」

第2回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 今野 紀昭さん(奥州・水沢区) 「ひつじ雲」

  優秀賞 野中 康行さん(盛岡) 「山王海」
      白金 英美さん(釜石) 「ミヤコワスレ」
      大木戸浩子さん(盛岡) 「『父の指』」

第1回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 三田地信一さん(宮古) 「母を恋(こ)うる歌」

  優秀賞 上田 敏雄さん(一戸) 「よみがえる化石」
      大木戸浩子さん(盛岡) 「遠い嫁ぎ先」
      野中 康行さん(盛岡) 「旅立ち」