啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」

人生の機微、光る表現
 岩手日報随筆賞贈呈式 

 岩手日報社主催の第16回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」贈呈式は17日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者、来賓ら約30人が出席。東根千万億(あずまね・ちまお)社長・主筆が奥州市の佐藤純子さん(65)に正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は盛岡市の佐藤淳子さん(61)、矢巾町の北林紗季さん(21)、花巻市の畠山政文さん(63)に賞状と賞金5万円、佳作は、盛岡市の前沢梨奈さん(37)、滝沢市の中村均さん(41)、盛岡市の多田有希さん(30)、同市の熊谷千佳子さん(63)、奥州市の佐藤洋子さん(70)=欠席=に賞状と賞金3万円を贈呈。20歳未満が対象の奨励賞は八幡平市の西山綾乃さん(19)に賞状と図書カード1万円相当を贈った。

 東根社長は「人生で心を動かされた出来事や日々の感情が、豊かな文章で表現されている。本県文芸の裾野の広がりを示した」と受賞者をたたえた。達増知事(代読)と選考委員長の詩人城戸朱理さんが祝辞を述べた。

 最優秀賞の佐藤さんは、約40年前の北海道旅行で豪雨に遭い、男性に助けてもらった際の感動をつづり「受賞をきっかけに再会し、本作の『その後』を書きたいと夢見ている」と期待を寄せた。

 今回の応募は過去最多の180編。社内予備選考を経て選考委員の城戸さん、作家平谷美樹さん、エッセイスト・絵本作家澤口たまみさんが審査した。

【写真=第16回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した(前列左から)優秀賞・北林紗季さん、同・佐藤淳子さん、最優秀賞・佐藤純子さん、優秀賞・畠山政文さん(後列左から)佳作の熊谷千佳子さん、中村均さん、前沢梨奈さん、多田有希さん、奨励賞の西山綾乃さん=17日、盛岡市・盛岡グランドホテル】

(2021.7.18)


第16回岩手日報随筆賞決まる
 

 岩手日報社主催の第16回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、奥州市水沢大手町、佐藤純子(じゅんこ)さん(65)の「あの夜、日勝峠で」が選ばれました。優秀賞は、盛岡市南大通、佐藤淳子(じゅんこ)さん(61)の「六十を過ぎて」、矢巾町南矢幅、北林紗季さん(21)の「ありがとう」、花巻市星が丘、畠山政文さん(63)の「祈り」の3編です。

 佳作は、盛岡市上田、前沢梨奈さん(37)の「前髪」、滝沢市湯舟沢、中村均さん(41)の「ああ、息子よ」、盛岡市みたけ、多田有希さん(30)の「また働ける日を目指して」、盛岡市上田、熊谷千佳子さん(63)の「母のトランプ」、奥州市水沢字南大鐘、佐藤洋子さん(70)の「イカニンジン」の5編です。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は、八幡平市平舘、西山綾乃さん(19)の「虹の話」が選ばれました。

 今回の応募は過去最多の180編。社内の予備選考を経た最終候補16編と奨励賞候補について選考委員の詩人城戸朱理さん(委員長、神奈川県鎌倉市、盛岡市出身)、作家平谷美樹さん(金ケ崎町)、エッセイスト・絵本作家澤口たまみさん(紫波町)が審査しました。

 贈呈式は17日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞は正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞は賞状と賞金5万円、佳作は賞状と賞金3万円、奨励賞は賞状と図書カード1万円相当がそれぞれ贈られます。

(2021.7.10)


第16回啄木・賢治のふるさと
「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 
 第16回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」は180編の応募があった。前年の162編を上回り過去最多となった。選考委員の城戸朱理さん、平谷美樹さん、澤口たまみさんが6月15日、選考会を開き、予備選考を通過した16編から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編と、20歳未満の応募者から奨励賞1編を選んだ。最優秀賞と優秀賞の作品と横顔を紹介する。

《選評》 内容充実 高い完成度

 コロナ禍で自粛を余儀なくされ、自分の心の内奥を見つめる時間ができたからだろうか。例年より応募作が増えたが、そればかりか、内容的にも充実した作品揃(ぞろ)いだった。

 最終選考に残った随筆は、どれが最優秀賞に選ばれてもおかしくないというレベルの高さで、選考委員を悩ませた。なんとも嬉(うれ)しい悩みだが、内容も多彩なら、いい話が多かった。

 佳作や奨励賞の作品も、すべて最優秀賞の候補として検討したのだが、こんなことは例がないのではないだろうか。それだけに選考は難航した。結局、探さなくてもいいような欠点を探し、減点法で受賞作を決めるしかなかったのだが、かなうならば、入賞したみなさんに最優秀賞を贈りたいと思ったほどである。

 【最優秀賞】「あの夜、日勝峠で」。舞台は北海道の日勝峠。崩落の危険がある峠で豪雨のため立ち往生してしまった心細さが、巧みな表現によって読者に迫ってくる。通りかかった壮年の男性のアドバイスで、待つ十五分の長さ。スリリングでありながら、人間への信頼を語る随筆であるところが素晴らしい。

 【優秀賞】「六十を過ぎて」も見事な作品だ。独身でキャリアを積み、リタイアした「デキる女」が、母の在宅介護のため、初めて家庭と家事に直面する。ユーモアも交えて、家庭のありがたさと家事の大変さを鮮やかに表現している。

 「ありがとう」はコロナ禍の新たな日常のなかで改めて発見した「ありがとう」という魔法の言葉の素晴らしさを語って、共感を呼ぶ。コロナ禍で、人間が距離を取らなければならなくなった今だからこそ、言葉の大切さを語る作品は貴重だろう。

 「祈り」は、鯉(こい)のぼりをめぐって、父から自分へ、そして息子へと受け継がれてきた思いを描いて、深みがある。鯉のぼりを揚げる面倒さまで含めて、家族の歴史を紡ぐあたりも印象深い。

 佳作の五編も、それぞれに良さがある。奨励賞の「虹の話」も新鮮な文体が光っていた。

(城戸朱理選考委員長)


最優秀賞

あの夜、日勝峠で

佐藤 純子

 その夜の日勝峠は凄(すさ)まじい雷雨だった。十勝から日高に向かう車のラジオが、道内のあちこちで崖崩れが起きていると報じていた。私と妹はニュースに耳をそばだてながらひたすら峠を目指していたが、車が土砂に埋まるという言葉に慄然(りつぜん)となって顔を見合わせた。

 峠の頂上に着いたとき雨脚は最も強く、私たちの車はまるで浅瀬を渡っているかのように水の抵抗と闘いながら進んでいた。ワイパーも雨の重さにかろうじて耐えていたが、エンジンの勢いが急に衰えたことに気づき、妹は慌てて路肩に向かってハンドルを切った。だが、とろとろと動いていた車は崖の下でぴたりと止まってしまった。

 その年の夏、二十歳の妹が運転するおんぼろ軽自動車で、私たちは憧れの北海道へ初めてのドライブ旅行に出かけたのだった。岩手を出発して八戸からフェリーで苫小牧へ。札幌から道南、道東の街を巡り、日高山脈を越えて苫小牧埠頭(ふとう)に戻り最終フェリーに乗り込むという気ままな旅だった。霧のベールに見え隠れする摩周湖は、あまりに神秘的でこの世のものとは思えなかった。荒涼とした釧路湿原を眺めながら小説のヒロイン気分に浸った記憶は今でも鮮やかで愛(いと)おしい。

 しかし最終日、十勝でぱらつき始めた雨は夜にはバケツをひっくり返したような豪雨と化し、私たちを足止めしたのだった。焦りに焦って何度もエンジンを噴(ふ)かしてみたがびくともしない。日勝峠は道幅が広く、無数の車が水飛沫(しぶき)を上げながら往来していたが、昼日中なら若い女性とわかれば威勢よく声をかけてくるトラックのドライバーたちも、このときばかりは無情に通り過ぎていった。

 助手席の窓から黒くそびえ立つ崖を見上げて私は身震いした。今にもそれは襲いかかってくるようだった。土砂の下敷きになった自分と妹の姿を想像して震えが止まらない。稲光を受け顔面蒼白(そうはく)の恐ろしい形相になった妹の顔を見たとき、私の恐怖も頂点に達した。

 「こうなったら歩いて下ろう! 車を捨てても死ぬよりマシだよ!」と私は言った。一、二の三の掛け声で、私たちは左右のドアから飛び出した。飛び出したが、次の瞬間にはまた車内に戻った。「無理だね、一歩も歩けない」と、妹は涙目になってうなだれた。

 ああ、怖いもの知らずとはこのことか。知恵も装備もなく旅に出た自分の無謀さを私は悔いた。こうなれば運を天に任せ、祈りながら助けを待つしか方法はないのだと悟った。

 その時だった。灯(あか)りを煌々(こうこう)と照らして後ろから近づいてくる車があった。「姉さん、車が停まったよ! 誰かこっちに歩いて来る!」。振り向くと、白いシャツを着た全身ずぶ濡(ぬ)れの大柄な男性が漕(こ)ぐように近寄って来る。彼は運転席の窓をコツコツと叩(たた)き、「どうしました?」と叫んだ。私は妹を押しのけて身を乗り出し、エンジンがかからないことを見知らぬ救世主に訴えた。この人を離してしまったらおしまいだとすがりつくように。

 「十五分ほど待ってからエンジンをかけてみるといいですよ。かかったら静かにアクセルを踏んでゆっくり進んでください。大丈夫ですよ、僕は後ろにいますから」。彼はそう言い、壮年の逞(たくま)しい背中を見せて落ち着いた足取りで引き返した。彼の車のヘッドライトに照らされて、ひどく長い十五分が経(た)った。息を殺して鍵を回す。「かかった!」。唾をのみ込み、指示通り細心の注意を払ってアクセルを踏む。「動いた!」「助かった!」

 無事に平地に下りた辺りで水は引き、雨は小降りになった。そのとき、後ろからずっと見守るようについてきた車が、いきなりクラクションを大きく二度鳴らして右折した。私たちはハッと我に返り、後ろを見やった。妹はクラクションを力いっぱい五回鳴らした。あ、り、が、と、う、と。

 私たちはしばらく無言だった。すんでのところで命拾いをして脱力したせいもあるが、我が身を顧みずどしゃぶりの中に飛び出すことのできる人間に抱いた感情を言葉にできないでいるのだった。それが畏敬の念だとわかったのは、ずっと後のことだ。

 「いい人はいいね」と妹が沈黙を破って小さく呟(つぶや)いた。これは善意の人に出会ったときの私たち姉妹の合言葉。川端康成の『伊豆の踊子』に出てくる台詞(せりふ)だ。「ほんとだね、いい人はいいね。お礼を言えなかったね」。それっきり二人とも再び口をつぐんだ。

 あれから四十年の月日が流れた。その間試練は幾度も訪れ、絶望したり人に幻滅したりした。けれども、そんなときは決まって、濡れそぼった髪を額にはりつかせ車の窓を叩いたあの人の必死の顔が浮かんだ。その顔が、どんな苦難が訪れようとも、希望を持って立ち向かえと私に語りかけてくれる。そして、疑いの心が生じたときには、私の中の人を信じる気持ちを呼び覚ましてくれるのだ。やっぱり人間っていいものなのだと。

《横顔》 40年越しの感謝胸に

 今も鮮烈な記憶として残る、40年前の北海道旅行。豪雨に遭った際の恐怖、助けてくれた男性への「畏敬の念」を、臨場感あふれるタッチで描写した。初の応募で最優秀賞に輝き、「自分の支えとなってきた出来事が賞を取らせてくれた。信じられない」と喜ぶ。

 本作は10年前に一度書いていたが、思いがあふれ、規定の原稿用紙枚数に収められなかった。県内中学校の家庭科教員として多忙だったこともあり、「いつか思いがまとまるまで」と温めていた。

 しかし、人生の苦難を経る度、助けてくれた男性への感謝は強まった。「お礼が言えなかったことを何度も悔やんだ。これ以上、延ばしてはいけない」と、再び原稿に向き合った。

 場面を車中に絞り、心境や情景を具体的な言葉で伝えるよう意識した。「作品が男性に届き、40年越しの後日談を書けたら、これ以上の奇跡はない」と思いをはせる。

 山田町織笠出身。小さい頃から読書に親しんだ。最も心をつかまれたのが高村光太郎の詩集「智恵子抄」。光太郎の妻への深い愛に涙し、何度も、何度も読み込んだ。壺井栄の小説「二十四の瞳」が教員を志すきっかけとなり、県立盛岡短大家政科を卒業後、主に奥州市や久慈市山形町の中学校で熱心に指導した。

 本格的に筆を執ったのは58歳で退職してから。語彙(ごい)や構成力の素地となったのは、読書だけでなく、代用教員だった父の影響もある。方丈記や徒然草など歴史と文学が好きで、「子守歌のように読み聞かせられた」と懐かしむ。

 4年前には、地元の水沢読書連絡会に入会。年1回発行される冊子に随筆を投稿している。

 2男1女を育て、今は庭の緑越しに柔らかな日差しが当たる机で、ゆったりと思いを巡らす。

 花壇に咲くハーブや果実、着物のリメーク…文章を書くようになり、身近にある感動が、より鮮明になった。「日常の中に書きたいことがたくさんある。季節の暮らしをつづる歳時記やエッセーにも挑戦してみたい」と期待に胸を膨らませる。

  【さとう・じゅんこ】 奥州市の江刺一中、水沢中、久慈市の旧霜畑中などで家庭科教員として勤務。現在、奥州市内の中学校で適応支援相談員を務める。同市水沢大手町。山田町出身、65歳。


優秀賞

六十を過ぎて

佐藤 淳子

 勤めていた時は「デキる女性管理職」を気取っていたから、月一回の美容院通いは欠かさなかった。ショートカットをミリ単位で整え、ヘアカラーもその都度のコンディションで明るさのトーンを微妙に変えつつ、仕上げはヘッドスパ六十分コース。デキる女はまず形からだ。

 それが今はどうだ。退職して約二年。最後に美容院に行ったのは、退職の半月前あたりだったろうか。髪は伸び放題で肩から下はパサついてうねっている。うねり髪の頭頂部には、河童(かっぱ)のごとき白髪の皿が広がっている。ヘッドスパなどもはや遠い昔の話である。化粧用ファンデーションも退職日以来ほとんど使っていない。かつては戦闘服だったスーツに袖を通すことはない。今の戦闘服はジャージーである。

 六十を過ぎて、母の在宅介護のため三十余年ぶりに実家に戻った。週に三日、一日七時間弱のデイサービスの時間が唯一の「自由時間」である。その貴重な時間を月一回とはいえ、美容院の二時間に充てる心の余裕と家事処理能力は今の私にはない。それに「要介護五」という最高位を拝命した母の介護には、このぐらいの風体の方がいいのだ。小ぎれいでお洒落(しゃれ)な恰(かっ)好(こう)をしていると、母も私も甘く見られるというものだ。これはこれで大事なTPOである。十余年前、初めて介護認定を受ける日、母は「ちゃんとしていると介護認定にならないらしいから、私は何を聞かれても『分かりません』『できません』と言い続けるから」とうそぶいていたが、今となっては紛(まが)うことなくどこから見ても完璧な最高位である。それなのに「乾いた洗濯物があったら私が畳みます」「何か台所の手伝いをさせてください」とせがんでくる。お気持ちだけいただきたいところだがそうもいかず、なんとかお膳立てをして、お手伝いをしていただき、そして私は後始末をする。

 今まで一度も家庭を持つことなく、好きなだけ仕事に没頭させてもらった。ずっと独りで過ごしてきた人間が、六十を過ぎて初めて「家庭」を持った。これまでの三十余年のキャリアで培ってきた能力は今はほとんど役に立たない。これまで使ったことのない力を使う毎日である。

 一日三食の献立を考え、定時に食事を提供することの果てしない持久力!

 朝食の後始末が終わったとたんに昼が来る。昼が終われば老人たちの早い夕食がやって来る。これが今日だけの話ではない。一週間限定でもない。毎日なのだ。独りの時は食べない日があってもよかった。コンビニに立ち寄れば全て解決した。だが今は、毎日毎食なのだ。かつて管理職として「凡事徹底」を呼びかけていたが、「凡事」とはなんという苦行であろうか。以前、「今日で九年間の弁当作りが終わったあ」と歓声をあげた同僚がいた。「冷凍食品を詰めるだけだったけれど」と彼女は言ったが、冷凍であってもデコ弁であっても、朝食を作り弁当を作り、帰宅後は夕食を作り続けていた彼女の九年間の偉業をもっともっと労(ねぎら)ってあげればよかったと今は思う。

 持久力と共に、危機対応力も問われる。母の体調と病状の変化を見逃さず、病院に連れていくか様子を見るかを即断しなければならない。かつては「管理職の仕事は危機対応」と言っていたが、これはまさに危機対応である。以前、「子どもが急に発熱しました。今日は一日有給で休ませてください」という部下からの電話に、物分かりのいい上司として「こっちは大丈夫だから」と応えたものの、「よりによって今日は人手が足りないのに」と思わなかったわけではない。「中二の息子がやらかしまして、担任から呼び出しを食らいました。早退します」と言われた時は、さすがに顔に出ていたのかもしれない。

 家族とは愛(いと)しく大切なものである。しかし、「家庭」は少々煩わしい。この煩わしさを背負いながら、かつての同僚や部下たちは、デキるつもりでいた管理職のもとで懸命に仕事をしてくれていたのだ。

 六十を過ぎて気づかされることは多い。

 今日もまた一日が始まる。うねり髪を後ろで一つに束ね、いつものジャージーを着て母の車いすを押す。凡事と危機対応の一日が始まる。

 母は、私たち姉妹の弁当を十一年間作り続けた。私が社会人四年目、アキレス腱(けん)を切った時は、実家から二時間かけて病院にやってきて十五分間顔を見ると、また二時間かけて戻っていった。もはや母の記憶の中には残っていない出来事だが、母もまた、凡事と危機対応を繰り返しながら家庭と仕事を両立させてきた一人だ。

 六十を過ぎて一変した生活の中で、思い出すことが増えてきた。

《横顔》 家庭でも明るく奮闘

 退職して実家に戻り、生活の中心が仕事から家庭へと一変した日々を軽妙につづった。「審査員のみならず、多くの読者の目に触れることになり、驚きとともに恐縮しています」と受賞を受け止める。

 岩手大教育学部を卒業し県内の小中学校や教育委員会などに勤務。教員や管理職として培った力が役に立たない家庭という舞台に戸惑い、うろたえながら、かつての部下への態度を反省する様子が冷静に記され、笑いを誘う。「笑いや軽みが独りよがりにならないように気をつけた。年明けから取り組んで書いてはつぶしの作業を締め切りまで繰り返した」。書くことから少し遠ざかっていたため、応募を目標に取り組んだ。

 受賞は2009年第4回の佳作以来となる。「日常のささやかな風景の中にある人間のかわいらしさやいとおしさを折々に書いていけたら」と語る。

 盛岡市南大通。二戸市出身、61歳。


優秀賞

ありがとう

北林 紗季

 「日本人には、同情心がないと言われています」

 とある老人が、弱った雀(すずめ)を助けようと温かい湯を飲ませて死なせてしまったという例を出して、大学の教授はそう言った。老人は「自分なら」冷たい水よりお湯の方がいいから、雀にもお湯を与えてその結果殺してしまったのだ。相手は鳥なのだから、お湯を与えてはいけないと考えればわかりそうなものなのに。

 自分がしてほしいことは相手にとってもうれしいことだと決めつけ、相手の気持ちを考えない。協調的だと思われがちな日本人は、実は自己中心的な考えの持ち主だということだ。

 なるほど、と私は納得した。その話をすんなりと受け入れたのは、私自身も利己的な人間であるという自覚があったからだ。

 「ありがとう」

 その感謝の言葉が、私は苦手である。

 

 人に親切にしてもらったとき、私の口から決まって出るのは「すみません」の言葉だ。感謝の気持ちよりも、どうしても申し訳なさが勝ってしまう。

 感謝していないわけでは決してない。むしろありがたいからこそ、気を使ってもらったのがひどく申し訳ないような気がしてつい謝ってしまうのだ。人と接することが得意ではない口下手な私は、感謝を伝えることがひどく苦手だった。感謝の気持ちを素直に口にできない、思いやりのない人間。

 

 現在、コロナウイルスの流行で人と関わる機会は減った。大学の講義はオンラインが多く、友人とも遊べない。そんな中で唯一私が家族以外の人と話すのは、アルバイトの最中のみだ。

 「こちら、お品物です」

 「ありがとうございます」

 コンビニには日々たくさんの人が訪れる。いつもお昼時に弁当を買っていくお兄さんは、毎回丁寧に「ありがとうございます」と言って去っていく。近所のやさしげなおじいさんも、お母さんに手を引かれてやってきた小さな女の子も。

 店員である私がお客様に「ありがとうございました」と言うのは当たり前だ。会計をしたり、商品を袋に入れたり、そんな当然のような仕事に対して言われる「ありがとう」が、泣きそうになるくらいうれしかった。人と会う機会が少なくなれば、「ありがとう」を聞く機会もまた少ないから。

 たった五文字の言葉が私の心にじんわりと沁(し)みた。まるで、傷口に薬が沁みていくように。

 

 自分は人と接することが苦手だと思っていた。しかし、コロナウイルスの蔓延(まんえん)で人と接する機会が減った中で、あらためて人の温かさに気づいた。人と関わりを持つことが、こんなに温かい気持ちを生み出すことを知った。

 「ありがとう」とはどうやら魔法の言葉のようだった。言われるだけで、心が満たされるような気がする。

 思い返せば外国語を学ぶとき、どんな言語でも必ず「ありがとう」という単語を序盤で習った。感謝はどんな人間でも持ち合わせる感情であり、どの国で生きるにしてもなくてはならない言葉なのだ。

 

 コロナウイルスが流行(はや)り始めて一年経(た)った令和三年の四月、私は左腕を骨折した。利き手ではないとはいえ、左腕が使えないことは不便だ。入浴したり髪を結ったり、そんな当たり前のことができなくなった自分が歯がゆい。コンビニのシフトにも穴を開けてしまって、迷惑をかける自分が情けない。

 そんなときに、道端で見知らぬ人から声をかけられることがあった。私の腕を見て「お大事にね」と言ってくれたおばあさん。苦手だったはずなのに、「ありがとう」の言葉が自然と私の口からこぼれていた。

 

 日本人は、相手の気持ちではなく自分のしてほしいことを押し付ける、自己中心的な人間かもしれない。しかし、たしかに思いやりを持っていることを私は知っている。

 今でも、人に優しくされると「すみません」の言葉がつい出てしまう。苦手はなかなか克服できない。だが、これからは謝りそうになったらいったん息を大きく吸って、しっかりと「ありがとう」を言おう。

 私がその言葉でもらった温かさを、今度は私が誰かに返す番だ。

《横顔》 素直な心と向き合い

 前回に続く優秀賞は4年連続の受賞。「まさか4度目があるとは思っていなかった。今までも偶然ではなく、自分の実力なのだと感じられてうれしかった」。会いたい人に会えない期間、左腕を骨折して多くの人に迷惑を掛けたとの思いから、感謝の気持ちを文章に込めた。

 岩手大人文社会科学部の4年。就職活動と重なったことに加えて、片手が使えず、執筆に時間が掛かった。「大変だったが、作品にしっかり向き合うことができた」ととらえる。

 「日常の何気ない景色や自分のわずかな感情の動きなど、どんなことでもテーマになる」。素直な気持ちを届けたいと随筆賞に応募を続ける。高校時代は文学研究部、現在は社会人の文芸サークル「一本桜の会」で活動し、小説も創作。「随筆だけでなく、さまざまなジャンルに挑戦していきたい」と意欲を見せる。

 矢巾町南矢幅。同町出身、21歳。


優秀賞

祈り

畠山 政文

 はるか前方に岩手山を見据えながら職場に車を走らせる。

 そろそろ端午の節句ということで、あちこちに鯉(こい)のぼりがひるがえっている。

 雪を脱ぎかけたかと思えば、また新雪をまとったりする岩手山が、裾野から彼方(かなた)までいたるところに泳ぐ鯉のぼりを見て悦に入ったようにそびえている。幾筋もの尾根や谷に沿った残雪が、真っ青な空の下でひときわ白い。

 鯉のぼりが空を泳ぐまでには、そこそこの手間がかかる。まず庭にポールを立てなくてはならない。そのためには結構な穴を掘らなくてはならない。そこに鉛直を測って支柱を打ちこみ、四段式のポールを伸ばしてネジでとめ、長くなったポールを起こして空に向けたまま持ち上げて支柱に差しこみ、三方からロープで固定し、やっと鯉を結わえつけることができる。

 翌年からは穴掘りや打ちこみ作業は要らないが、それでも鯉が空に泳ぐまでにはひと仕事になる。晴れた休日にやるしかない。

 鯉のぼりを揚げるようになってから三十年以上が過ぎた。数年のブランクがあったが、ここ数年また揚げるようになった。姉と妹に挟まれた息子はすでに三十も越え、東京で一人暮らしをしている。将来的にも岩手に帰るつもりはない、と言い切り、コロナを避(よ)けながら自分なりに夢を追い続けている。

 初めて鯉のぼりを立てたのは、息子がそろそろ三歳になろうかという四月末だった。

 小さな借家の北側には水を張った田んぼが広がっていた。

 ここ二、三日遠くの鯉のぼりを見てばかりいる、と妻から聞いた翌朝、そのたどたどしい足取りについていくと、息子は家の裏の小径(こみち)の真ん中で足を止めた。見つめる先には何枚もの田んぼを隔てて、指でつまめそうなほどの鯉のぼりが、はだらに雪を残した岩手山を背景にはためいていた。

 「なに見てんの?」

 「こいのぼい」

 小学生がぽつぽつと息子の前後を横切って行くが、息子は身じろぎもせず見つめている。半袖の下着によれよれのパジャマのズボン、ちっちゃな水色のサンダル。頭でっかちの後ろ姿は岩手山を向いてたたずんだままだ。

 ゴールデンウィーク。鯉のぼり掲揚セットをこっそり買い、翌朝、少し明るんだあたりから静かに一人で作業をした。穴を掘るのもポールを立てるのも一人で難なく済ませた。そして鯉のぼりを揚げた。三人が起きるのを待ちきれずに、障子を開ければ鯉のぼり、という窓を叩(たた)く。妻が障子を開ける、かすかになびく尾ひれが目に入る。察した妻は長女と息子を起こす。眠りから覚めたばかりの子どもたちの目は、東の窓から見上げる鯉のぼりをまともに見ることができない。息子はすぐに玄関から小走りに出てきた。眩(まぶ)しすぎてほとんど目を閉じるようにして笑いながら見上げている。ふと息子は私に向き直ると「あいがと」と言っておじぎをした。

 私が大学に行っても、父は鯉のぼりを揚げていた、と母から聞いた。不肖の息子は大学を卒業し、初月給で小遣いも渡さず、自分が欲しかったギターを買った。病弱だった父はそのあとすぐに入院し、その五月、鯉のぼりを揚げることもなくこの世を去った。

 正直に言えば鯉のぼりを揚げるのはめんどくさい。が、その手間こそが味わうべきものなのだ。還暦もとうに過ぎた今となれば、鯉のぼりは若い父親として見上げたときの鯉のぼりではない。

 昨年末、緊急手術をした。手術台に乗せられたとき覚悟を決めると「俎板(まないた)の鯉」という言葉が浮かび、そこから思いは鯉のぼりに飛び、また鯉のぼりを揚げたいな、とふと思った。

 そして今年。満開の桜を見た。美しかった。

 かつては一人で難なく済ませたポールを立てる作業を、ここ数年はあの窓からこれもまた眩しくて鯉のぼりを正視できずにいた長女と、まだ生まれてもいなかった次女が手伝ってくれるようになった。

 少し早起きして朝ごとに眩しい空に向かってロープを引っぱる。それはいいのだが、下ろそうとするたびにしょっちゅうポールや支えのロープに引っかかっては、物干し竿で解(ほど)きにかからなければならない世話の焼ける鯉のぼりである。だからこの時期にはいつも首が痛くなる。が、それも込みでの鯉のぼりだ。

 最高に幸せなめんどくささだ。

 子どもたちの何十倍も見上げてきた鯉のぼりは、ところどころ擦り切れてはいるが、風を受ければそろって泳いでいる。

 あちこちの鯉のぼりの下(もと)には、汗や、それぞれの体の痛みや、急な雨に慌てる姿や、仕事に追われながらのため息があるにちがいない。そして見上げる笑顔はどこにでも。

 そのすべてが祈りの形であり、感謝のしるしなのだと今になって気づくのだ。

《横顔》 「書き残す」思い強く

 昨年、病気をしたことが応募のきっかけ。「書きたいことはすぐ書かなければ。親の思いを書き残しておくべきだと思った」と振り返る。子を思い、こいのぼりを掲げる父親の心情を細やかにつづった。「当初は後半部に震災をモチーフにしていたが、応募10日前に書き直した」と明かす。

 前身の岩手日報文学賞随筆賞では母親が2度入選。前回は娘が同じ優秀賞を受賞した。親子3代での受賞の知らせに「少し戸惑ったが、じわじわとうれしさがこみ上げてきた」という。

 1994年に文芸誌「北の文学」29号で、小説「南部城下虎騒動異聞」で優秀作。2015年にエッセー集も出版するなど文芸活動に幅広く取り組んできた。

 岩手大教育学部卒。県立学校の教員として長く勤める。来春退職する予定で「ジャンルにこだわらず書き残すべきことを書き残したい」との思いを抱く。

 花巻市星が丘。大船渡市出身、63歳。

第15回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 高橋 芳江さん(釜石) 「母の裁ちバサミ」

  優秀賞 平山 奈子さん(盛岡) 「思い馳せ」
      北林 紗季さん(矢巾) 「Undefined」
      土屋 恵子さん(二戸) 「やさしい人」

第14回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 遠藤カオルさん(奥州) 「五月のふる里」

  優秀賞 川辺 学さん(北上)  「手紙」
      古川 寛子さん(紫波) 「さんさ踊りの夏が来る」
      本田 香織さん(矢巾) 「もりおか」

第13回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 国崎 萌子さん(盛岡) 「サイダー」

  優秀賞 熊谷千佳子さん(盛岡) 「消灯私邸」
      菅原 弘行さん(花巻) 「母ちゃんのリヤカー」
      圃田 百恵さん(一戸) 「たったひとつの恩返し」

第12回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 石川 啓子さん(奥州) 「父の作品」

  優秀賞 多田 有希さん(盛岡) 「痛みと生きていく」
      熊谷千佳子さん(盛岡) 「魔法のことば」
      山口トヨ子さん(花巻) 「のんべぇたちの攻防」

第11回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 吉田 澄江さん(盛岡) 「ワレモコウ」

  優秀賞 羽柴 香子さん(一関) 「父」
      熊谷 奈南さん(盛岡) 「石割桜」
      松本 幸子さん(金ケ崎) 「ねぎの花のように」

第10回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 高橋 久美さん(花巻) 「四月にツイート」

  優秀賞 高橋 政彦さん(盛岡) 「吸殻エレジー」
      上山 明美さん(田野畑) 「母が残してくれた、一枚の写真」
      武田 穂佳さん(滝沢) 「しるし」

第9回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 小川 クニさん(雫石) 「ゆりかごごっこ」

  優秀賞 佐藤 洋子さん(奥州) 「アゲハチョウ」
      高橋 久美さん(花巻) 「素敵な板挟み」
      山口トヨ子さん(花巻) 「おもかげ」

第8回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 田辺るり子さん(盛岡) 「たいせつな場所」

  優秀賞 稗貫 イサさん(花巻) 「結びの宿」
      太田代 公さん(北上) 「輪の中へ」
      武田 洋子さん(奥州) 「伝える喜び」

第7回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 工藤 玲音さん(盛岡三高) 「春の雨」

  優秀賞 伊藤由紀子さん(盛岡) 「川岸」
      吉田 澄江さん(盛岡) 「雲よ」
      中村キヨ子さん(宮古) 「父の講義」

第6回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 太田 崇さん(久慈) 「父の行程表」

  優秀賞 石川 啓子さん(奥州) 「引き継ぐ」
      大沼 勝雄さん(盛岡) 「津軽山唄」
      稗貫 イサさん(花巻) 「父の匂(にお)い」

第5回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 渡辺 治さん(雫石) 「一本の古クギ」

  優秀賞 鈴木 紀子さん(花巻) 「おやすみ、大好きなお母さん」
      沢内 建志さん(宮古) 「命の誕生」
      平松真紀子さん(釜石) 「熊さんの杉」

第4回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 小野まり子さん(金ケ崎) 「牛飼い、再び」

  優秀賞 神田由美子さん(奥州・水沢) 「花の町にて」
      佐藤 明美さん(盛岡) 「アルバム」
      吉田 真人さん(盛岡) 「ロレッタ」

第3回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 野中 康行さん(盛岡) 「リッチモンドの風」

  優秀賞 井手 厚子さん(盛岡) 「妹」
      上柿 早苗さん(盛岡) 「祈るとき」
      佐藤 勇子さん(金ケ崎) 「母の置土産(おきみやげ)」

第2回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 今野 紀昭さん(奥州・水沢区) 「ひつじ雲」

  優秀賞 野中 康行さん(盛岡) 「山王海」
      白金 英美さん(釜石) 「ミヤコワスレ」
      大木戸浩子さん(盛岡) 「『父の指』」

第1回岩手日報随筆賞

 最優秀賞 三田地信一さん(宮古) 「母を恋(こ)うる歌」

  優秀賞 上田 敏雄さん(一戸) 「よみがえる化石」
      大木戸浩子さん(盛岡) 「遠い嫁ぎ先」
      野中 康行さん(盛岡) 「旅立ち」