~東日本大震災2859日~

2019.1.7

 東日本大震災から、きょうで2859日。8年間の県復興計画は大詰めを迎えており、今年のラグビーワールドカップや2020年の東京五輪・パラリンピックでは世界に復興をアピールする。土木工事は終わっていく。だが、そこに暮らす人々の心は、生活は―。岩手日報社が12年3月11日から続ける連載「忘れない」で取材したご遺族一人一人の復興の足跡を、宮沢賢治の言葉と共に白黒写真で記録する。

(随時掲載)

 国内写真フィルム製造大手の富士フイルムイメージングシステムズは4月、1934年から続く白黒フィルムと印画紙の販売終了を発表した。銀が織りなす陰影のみで昭和、平成の報道を支えてきた白黒写真。デジタル技術で疑似表現はできるが、本物の白黒写真が撮れるのはあとわずかだ。被災地へレンズを向ける。
 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス▽フィルム現像液 D-76▽印画紙 イルフォードMGⅣ▽印画紙現像液 コレクトールE

⑤岡本 厚子さん(山田)

孫の綿入れを作る岡本厚子さん。老人クラブへの加入で笑顔が増えた=山田町船越

心救った恩人の誘い

 曲がりくねった坂が続き、かつて交通の難所といわれた山田町船越の四十八坂海岸。その近くに住む岡本厚子さん(75)は、充実の笑顔で新年を迎えた。「3年前には想像もできなかった」。紺碧(こんぺき)の海に、同町中央老人クラブの高橋久美子会長(70)との出会いを感謝する。

ウエディングドレスをまとった千恵子さん。震災直後の避難生活を支えてくれた

 大槌町赤浜に嫁入りして50年近く暮らし、東日本大震災で夫の強平さん=当時(77)=が行方不明となった。震災当日、厚子さんは講演会のため仙台市におり、手足が不自由だった強平さんに避難を促すことができなかった。

 帰りのバスはいくら待っても来ず、見ず知らずの家に泊めてもらった。着の身着のままでお礼もできず、「せめても」と家中を掃除して3月16日に山形市行きのバスに乗車。秋田県を経由し同17日に盛岡市へたどり着いた。長女の千恵子さんが暮らす八幡平市に避難し、不安でつぶれそうになる心を支え合った。

 どんなに捜しても強平さんは見つからなかった。しばらくして復興が始まると同海岸近くで営む実家の民宿が満員となり、連日手伝いに駆り出された。忙しさに身を投じ心を無にして働いたが、工事がピークを過ぎると客は減っていった。

 「いつか見つかった時、安心して帰ってこられるように」と実家近くに自宅を再建したが、長く離れていた古里に知り合いは少ない。ひとり静かに暮らしていた2016年1月、心の支えだった千恵子さんが病に倒れ、49歳の若さで亡くなった。「誰にも会いたくない」と、自宅にこもる日々が半年ほど続いた。

 「気分転換してきたら」。高橋会長はそんな厚子さんに温泉旅行のチラシを渡し、背中を押した。気乗りしなかったが、行ってみれば被災者が大勢参加しており、一緒に泣いたり笑ったりして少し心が明るくなった。

 高橋会長の誘いで同クラブにも加入。昨年は踊りやカラオケ、子どもたちとの交流など多彩な活動を楽しみ、町高齢者大学で地域の歴史も学んだ。人と触れ合うことが活力を生み、今では朝から車を運転して宮古市へ向かい、ジムで健康づくりに励む毎日。昨年末には、得意の洋裁の腕を振るって作った綿入れを孫にプレゼントした。

 手を差し伸べることで、人は人を救える。「久美子さんは命の恩人」と慕い、共に人生を楽しむ。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。

 

銀河鉄道の夜より抜粋