~東日本大震災2842日~

2018.12.21

 東日本大震災から、きょうで2842日。8年間の県復興計画は大詰めを迎えており、来年のラグビーワールドカップや2020年の東京五輪・パラリンピックでは世界に復興をアピールする。土木工事は終わっていく。だが、そこに暮らす人々の心は、生活は―。岩手日報社が12年3月11日から続ける連載「忘れない」で取材したご遺族一人一人の復興の足跡を、宮沢賢治の言葉と共に白黒写真で記録する。

(随時掲載)

 国内写真フィルム製造大手の富士フイルムイメージングシステムズは4月、1934年から続く白黒フィルムと印画紙の販売終了を発表した。銀が織りなす陰影のみで昭和、平成の報道を支えてきた白黒写真。デジタル技術で疑似表現はできるが、本物の白黒写真が撮れるのはあとわずかだ。被災地へレンズを向ける。
 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス▽フィルム現像液 D-76、ミクロファイン▽印画紙 月光スーパーSPVR2▽印画紙現像液 コレクトールE

④菅野 忠さん(陸前高田)

気仙左官の誇りを胸に出稼ぎを続け、この国を造ってきた菅野忠さん。辞めた後の生きがいを探す=東京都豊島区

夢紡いだ出稼ぎに幕

 2020年の東京五輪・パラリンピックを前に、建設ラッシュに沸く東京。長年の無理がたたり、最近膝が痛む。現場は外国人が多くなった。池袋駅近くのマンション建設現場で働く陸前高田市米崎町の左官業菅野忠さん(70)は今月、50年以上続けた出稼ぎを引退する。

菅野忠さんが再建した自宅。1人暮らしには少し広い=陸前高田市米崎町

 東日本大震災で妻の裕子さん=当時(64)=を亡くした。当時は千葉県で働いていて、地元に戻れたのは3月16日。避難所に入り5月まで捜したが、いつかは働いて収入を得なければならなかった。心底心配し「いつまででもいいから」と送り出してくれた職場にも、さすがに迷惑を掛けると思った。

 妻が見つからなくても、現場に戻らざるを得ないのが出稼ぎだった。後に遺体が見つかった時も、自宅が流失し、長く離れて暮らしていたため、DNA型を特定できる物がなかった。かつて親類が受け取った手紙の切手の裏からやっと検出し、身元を確認した。

 山がそのまま海に落ちるリアス海岸のため田畑が狭く、気候も冷涼でたびたび飢饉(ききん)に見舞われた気仙地方。生き延びるため手に職をつけた大工や左官たちが明治以降全国で活躍し、気仙大工・左官は日本四大名工の一つとたたえられる職人集団となった。多くが出稼ぎで、地元に帰るのは年末年始とゴールデンウイーク、盆ぐらいだ。

 菅野さんは26歳の正月に幼稚園教諭だった裕子さんと見合いし、5月の連休に結婚。仕事に戻ると2カ月に1度ほど、特急に乗って仙台駅で待ち合わせるのがわずかな新婚生活だった。子どもは授からなかった。

 裕子さんは、いつも人の輪の真ん中にいる女性だった。自宅前にバス停があり、退職後も昔の仕事仲間が集まって茶飲み話に花を咲かせていた。優しい人で「嫌になったらいつでも辞めて帰ってきていいよ」と言ってくれた。年金が満額もらえる65歳を過ぎるまで頑張ったら、白黒の愛猫ミーコと「3人」でゆっくり暮らそうと思っていた。

 50年以上、25キロのセメント袋を担いで階段を上り紡いだ夢は消えてしまった。それでも、働いていれば気が紛れた。金をため、4年ほど前に2階建て5DKの自宅を再建。帰省すると昼間はテレビを見る時間が長く、夜は仏壇に「おーい」と語り掛ける。

 「奥さんのように、茶飲み友達がいればなあ」。出稼ぎを辞めた後、どう生きていくか。答えはまだ見つからない。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。

 

マリヴロンと少女より抜粋