~東日本大震災2814日~

2018.11.23

 東日本大震災から、きょうで2814日。8年間の県復興計画は大詰めを迎えており、来年のラグビーワールドカップや2020年の東京五輪・パラリンピックでは世界に復興をアピールする。土木工事は終わっていく。だが、そこに暮らす人々の心は、生活は―。岩手日報社が12年3月11日から続ける連載「忘れない」で取材したご遺族一人一人の復興の足跡を、宮沢賢治の言葉と共に白黒写真で記録する。

(随時掲載)

 国内写真フィルム製造大手の富士フイルムイメージングシステムズは4月、1934年から続く白黒フィルムと印画紙の販売終了を発表した。銀が織りなす陰影のみで昭和、平成の報道を支えてきた白黒写真。デジタル技術で疑似表現はできるが、本物の白黒写真が撮れるのはあとわずかだ。被災地へレンズを向ける。
 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス、TRY-X▽フィルム現像液 ミクロファイン、D-76▽印画紙 月光VR2▽印画紙現像液 コレクトールE

②佐藤 寿さん(大槌)

あの日駆け上がった墓地を訪れた佐藤寿さん。静かに眠るキミエさんと共に、海を見渡す新たな古里を望む=大槌町赤浜

海を望む新居 やっと

 仮設で7年暮らした。「なげぇ。とんでもなぐなげがった」。東日本大震災で妻キミエさん=当時(62)=を亡くした大槌町赤浜の佐藤寿(ひさし)さん(72)は7月、やっと新居に移った。眼下に広がる大槌湾に、ひょっこりひょうたん島のモデルとされる蓬莱(ほうらい)島が浮かぶ。仮設暮らしが長引いたのは、高台団地の造成を待っていたからだ。

夜明け前、ホタテガイの水揚げに励む漁業者。6・4メートルの防潮堤の上に、高台のわが家が見える=大槌町・赤浜漁港

 大きな揺れだったが、津波が来るとは思わなかった。「屋根は大丈夫か」と表に出たが、6・4メートルの防潮堤に遮られ海は見えない。大ごとだと気づいたのは、隣人と「揺れましたね」と話している時、海際から「津波だ」と叫んで避難する人々を見た後だ。

 慌てて坂を上って見下ろすと、押し寄せる津波が見えた。裏の墓地を駆け上がり、間一髪で生き延びた。

 キミエさんが勤めていた釜石市鵜住居(うのすまい)町のギフトショップからも、海は見えなかった。津波が迫ってから宅配便の車に乗せてもらったが、車ごと流された。

 赤浜地区は住民の1割に当たる93人が亡くなり、地区住民が合同で葬儀を営んだ。あの日言葉を交わした隣人も遺体で見つかった。あれほどつらい葬式はなかった。「海が見えないと、逃げないよな」。避難所のたき火を囲み、皆でかみしめた。

 だが津波から半年後、国と県は5階建てのビルに匹敵する14・5メートルの巨大防潮堤で海岸線を囲う復興計画を決めた。佐藤さんら赤浜の人々は「ますます海が見えなくなる」と反対した。

 必死の訴えで計画は変更され、防潮堤は従来と同じ6・4メートルにとどめ、住民は海が見える高台に移ることになった。しかし用地取得が難航し、計画はたびたび延長。最後の土地引き渡しは来年3月までかかる。まだ仮設で暮らしている人も、待ちきれず他地域へ移り住んだ人もいる。

 仮設は外の音がよく聞こえた。女性が集まって話をしていると、キミエさんが交ざっている気がして、外へ飛び出しそうになった。

 「横手まで行って火葬して、ちゃんと見送ったのに」。物音が聞こえにくい新居に移った今も、35年連れ添った赤浜の空から、時折声が聞こえる気がする。

 「海が見えれば皆逃げる。長くかかったが、赤浜は津波で人が死なないまちになったぞ」。蓬莱島を望むキミエさんの墓へ、静かに語りかける。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

薔薇(ばら)輝石や雪のエッセンスを集めて、/ひかりけだかくかゞやきながら/
その清麗なサファイア風の惑星を/溶かさうとするあけがたのそら

春と修羅 暁穹(ぎょうきゅう)への嫉妬より抜粋