~東日本大震災2835日~

2018.12.14

 東日本大震災から、きょうで2835日。8年間の県復興計画は大詰めを迎えており、来年のラグビーワールドカップや2020年の東京五輪・パラリンピックでは世界に復興をアピールする。土木工事は終わっていく。だが、そこに暮らす人々の心は、生活は―。岩手日報社が12年3月11日から続ける連載「忘れない」で取材したご遺族一人一人の復興の足跡を、宮沢賢治の言葉と共に白黒写真で記録する。

(随時掲載)

 国内写真フィルム製造大手の富士フイルムイメージングシステムズは4月、1934年から続く白黒フィルムと印画紙の販売終了を発表した。銀が織りなす陰影のみで昭和、平成の報道を支えてきた白黒写真。デジタル技術で疑似表現はできるが、本物の白黒写真が撮れるのはあとわずかだ。被災地へレンズを向ける。
 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス、TRY-X▽フィルム現像液 ミクロファイン、D-76▽印画紙 月光VR2▽印画紙現像液 コレクトールE

③佐々木雅子さん(宮古)

岩手東海新聞社宮古支局があった建物を訪れた佐々木雅子さん。いとおしい日常と、別れの記憶が交錯する=宮古市向町

記者夫婦 思い出今も

 40年間、一緒に働いた場所。あの日、最後に目が合った場所。そばを歩くと、足に絡み付く水の冷たさがよみがえる。宮古市山口の佐々木雅子さん(67)は、時を経るごとに近づけなくなっている。

いつも一緒だった佐々木健さんと雅子さん。2011年3月11日付の新聞には、2人の記事が初めて並んで載っていた

 旧岩手東海新聞社宮古支局は、同市向町の2階建ての建物を間借りしていた。記者は支局長で夫の健(たけし)さん=当時(64)=と雅子さんの2人だけ。毎朝そろって出勤し、広い管内を駆け回り、夜遅くまで写真を焼き、原稿を書いた。

 健さんは、何者にもおもねらず「お年寄りや中学生にも分かるよう、易しく、短く書け」が口癖の心優しい記者だった。心臓を手術し運転を禁じられた2007年からは、どこへ行くのも雅子さんと一緒だった。

 岩手東海新聞は夕刊紙。11年3月11日付の紙面には、2人が書いた記事が初めて隣り合わせで載った。夫婦の記念日になるはずだった。

 地震の後、健さんは「新聞を配ってから逃げる」という配達員らを「新聞なんかどうでもいいから帰れ」「命の方が大切だから逃げろ」と怒鳴りつけた。温厚な健さんとは思えない、とんでもないけんまくだった。

 やっとのことで従業員4人を避難させた直後、津波が来た。「2階に上がれ」と叫ぶ健さんの声が聞こえ、どんどん増える水に足を取られながら階段を上って外を見ると、健さんが目の前を流されていった。

 一瞬、目が合った。物干しざおを差し出そうとしたら、見えなくなっていた。自分を責め続けている。

 一人になった自宅は何もかもに思い出が染みこんでいて、物音がするたびに「健ちゃん、お帰りなさい」と口をつきそうになる。「もう一度会いたい」と願って生きる一日は、1カ月と感じるほどに長い。

 高齢者の家の掃除や草むしり、通院介助のボランティアをしたり、料理を教えたりと忙しく過ごしてみても、夜一人になれば同じ。

 家を引き払おうとも思ったが、かつて健さんの取材を受けた人や、同市で勤務した全国の記者が訪ねてきてくれる。シラユリを飾った仏壇に線香をあげ「世話になった」と思い出話を聞かせてくれる。時を経ても変わらぬ人の心が温かい。

 「いつまでもこうしてはいられない。分かっているけれど、情けないと思うけれど、どうしていいのか分からない」

 復興していくまちの中で、一人たたずむ。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

……あゝ いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう……

 

春と修羅第二集 薤露(かいろ)青より抜粋

震災企画「あしあと」
①小林 一人さん(陸前高田)2018.11.09
②佐藤 寿さん(大槌)2018.11.23