市の検証によると、浸水高は広範囲で15メートルを超え、2840世帯のうち2047世帯が全壊。1次避難所も半数以上が被災した。例年避難訓練で使用し、当日も大勢が避難していた3階建ての同会館では130人超が犠牲となった。
震災後、長く色を失っていた中心部は最大約12メートルかさ上げされ、大型商業施設や公共施設が再建された。芝生の公園に市民が集う、かつての風景が戻りつつある。
陸前高田商工会の被災会員604事業所のうち314事業所が再開し、大部分が同市高田町に集まる。整地が終わった被災跡地は災害危険区域として住宅建設が禁止され、産業用地としての活用を模索している。

家族の記憶も物語る
強い揺れの後、米沢さんは店を片付けていた。その場を両親や弟に任せて倉庫の片付けに向かった時、避難を促す放送が聞こえた。
慌てて店に戻ったが、誰もいない。近くの市民会館に逃げたと思い、上階に上がると窓から黒い水が見えた。とっさに屋上に駆け上がり煙突に登った直後、波が押し寄せた。わずか10センチ下まで一面の海。迫り来る津波に流されまいと、1平方メートルほどの空間でへりにしがみついた。家族が逃げたはずの会館は屋根すら見えず、家族の死を悟った。
2年ほどして周囲の建物の取り壊しが進み、古里の姿が失われていく中で、保存への思いが強まった。ビルは命を救ってくれた「恩人」であり、唯一残った思い出の品だった。時期を逃すと解体費用が自己負担となるため迷いはあったが、妻の応援や保存を求める客の声に背中を押された。
2011年夏、がれき撤去を手伝ってくれたボランティアに被災体験を語って以来、年間30回ほど現地で語り部を行っている。震災の約1カ月前に生まれた長女多恵さん(10)ら、震災を知らない世代に災害の恐ろしさを覚えてほしい。
理由はもう一つ。「話した分だけ、記憶が強くなる。思い出せることがすごくうれしいんです」。亡き家族との思い出が、ふいによみがえる。あと何年語れるか分からないが、建物は存在する限り「物言わぬ語り部」でいてくれる。
