明治の津波被害刻む

釜石市・嬉石地区


 釜石市嬉石町の住宅地。1896(明治29)年の三陸大津波の犠牲者を弔う「海嘯(かいしょう)横没精霊」が民家に隠れるようにひっそりと立つ。津波の2年後の98年に建立され、人的被害の大きさを伝えてきた。
 碑は高さ約160センチ、幅98センチ。裏面には嬉石の「水害災死者」として、男性61人、女性94人が犠牲になったことが記されているほか、寄進者や世話人、石材を細工・加工する職人の氏名が刻まれている。
 明治の津波で嬉石に押し寄せた津波の最大浸水高は6・90メートル(県昭和震災誌)。釜石市誌によると、嬉石を含む釜石町釜石で5274人のうち3323人が犠牲になり、全戸数の8割に当たる791戸が被災した。
 釜石町の証言集を現代の言葉に直した「釜石町大海嘯記録」(故上飯坂哲さん著)には、嬉石の漁業者が人命救助に尽力した雑記が紹介されている。妻子を助けられなかった悔しさを胸に舟をこいで湾内を回り、人々を助けた。
 明治、昭和の津波と第2次世界大戦末期の2度の艦砲射撃で大きな被害を受けた釜石市。ただ、嬉石地区は戦災を免れ、戦前からの老朽住宅が密集していた。1978年度に国の制度を導入して老朽住宅の移転や除却などを進め、27年間かけて2004年度に新たなまちが完成した。しかし、その数年後、東日本大震災が発生した。

「長い揺れ」警戒脈々

地震発生後に避難した市道に立ち、津波襲来時の状況を振り返る川畑誠一郎さん
 「寄せ波と引き波がぶつかって、ものすごい高さの水柱が立ったのが見えた」。釜石市嬉石町の川畑誠一郎さん(77)は東日本大震災時に避難した市道に立ち、あの日の光景を振り返った。
 2011年3月11日、自宅で強い揺れを感じた。高い音が聞こえにくい難聴だが「なぜか、ドッドッドッと水の音が聞こえた」。外に出て「津波来るぞー。水来るから」と叫びながら市道に向かって走った。
 自宅兼商店も、地域内の多くの家々も津波にのまれていく。公共埠頭(ふとう)に並んでいた自動車は一気に浮き上がり、流されていった。嬉石地区で生まれ育ち、高校生の時にチリ地震津波を経験したが「(震災は)地獄だった」。何年たとうと鮮明に浮かんでくる。
 市の記録によると、嬉石町では震災で856人のうち45人(死者39人、行方不明者6人)が犠牲になり、137戸が全壊。半壊・大規模半壊は7戸だった。
 平野富男さん(75)も自宅から市道に避難した一人だ。「ゆったりと気持ち悪い感じで、長く揺れた」。1905(明治38)年生まれの父から聞いていた祖父の教えが心にあった。いつまでも収まらない揺れに「これは、大津波が来る」と地震発生後まもなく避難を始めた。
 川畑さんも平野さんも親から過去の津波の話を聞いたことがあった。お盆には墓参りの後に、明治の津波犠牲者を弔う石碑に立ち寄り、松を燃やし、手を合わせていた。多くの人がその存在を知っていた。
 川畑さんは「石碑は過去の津波を伝えるものの一つ。津波の恐怖とともにあらためて継承していくことが必要だ」と強調。平野さんは「多くの犠牲があったことを知り、『長く揺れたら大津波』などの教えを頭に入れておくべきだ。どんな災害でも自分で判断し行動する力を身に付けてほしい」と願う。
土地区画整理事業で整備された宅地に住宅が並ぶ嬉石地区。震災前に比べ140世帯ほど減少した(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年3月】 津波で被災した嬉石地区。がれきが散乱する(釜石市提供)

2021年04月21日 公開
[2021年02月05日 岩手日報掲載]

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釜石市・嬉石地区の海嘯(かいしょう)横没精霊

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