墓石に被害状況克明

普代村・太田名部地区


 普代村中山の太田名部(おおたなべ)漁港から約500メートル離れた高台にある大久保霊園。30年前、太田名部地区に分散していた墓を移転し、共同墓地とした。それぞれの家の区画の中には、一族の墓とは別に、1896(明治29)年の三陸大津波の犠牲者を弔う供養碑がある。
 墓地の奥にたたずむ坂下家の墓石には、当時の被災3県と普代村の被害状況が詳しく記されている。
 供養碑は高さ約180センチ、幅約80センチとひときわ大きく、存在感を放つ。「普代の石碑」(村教委編)によると、三陸大津波の記録が個人の墓石に記された例は少ないが、坂下家は代々漁業を営み、大謀(だいぼう)を務めた先祖もいたことから、同村太田名部の釜谷寿人さん(78)は「当時の坂下家は地域のリーダー的な存在だったためだろう」と推測する。
 普代村史(同)によると、明治の三陸大津波は、北は青森県の泊港から南は宮城県の志津川町に至る一帯に襲来。津波による被災者や死者は本県が最も多かった。同村では津波で78戸が流失し、溺死者は343人に上った。このうち太田名部地区は40戸が流失し、200人が犠牲となった。
 当時の状況を記した石碑はいくつか存在したが、1961年の三陸フェーン大火でほとんどが粉々に。災害を乗り越えた坂下家の碑が、被災の歴史と鎮魂の祈りを伝え続けている。

先祖の教え受け継ぐ

明治の三陸大津波で犠牲になった先祖の除籍謄本に目を落とす坂下洋一さん=普代村太田名部
 太田名部地区を東日本大震災の津波から守ったのは、1896(明治29)年と1933(昭和8)年の大津波を教訓に建設された高さ15・5メートルの防潮堤だ。
 「被害を振り返り、後世に同じ被害に遭わないよう記録として残したのではないか」。同村太田名部の元村職員坂下洋一さん(79)は、供養碑を建立し津波の恐ろしさを伝えた祖父豊治に思いを巡らせる。
 当時、相談役を務めていた会社にいた坂下さんは、建物の2階から波が押し寄せる光景を目の当たりにし「これはすごい災害になる。家族は大丈夫か」と自宅へと戻った。被災を覚悟していたが、無事だった。
 同防潮堤は、昭和の津波を経験し、47年から10期40年間村長を務めた和村幸得(こうとく)さんの訴えで建設された。総工費5837万円を投じ67年に完成。和村元村長は明治の津波の高さ15・2メートルにこだわり「2度あったことは3度あってはならない」と切実に訴えた。
 坂下さんは「防潮堤が太田名部を救ったが、美談にはあまりしてほしくない」と複雑な表情を浮かべる。
 昨年10月の台風19号では記録的な大雨で土砂災害や冠水が相次ぎ、山の斜面に沿った2本の坂道に住宅が連なる同地区の被害も大きかった。
 坂下さんは「先祖が残した教訓を前に、同じ惨禍を繰り返してはならない。後世に受け継がれてほしい」と、先人が刻んだ災害の脅威に改めて向き合う。
普代村上の山の共同墓地(右下)。太田名部地区に分散していた墓を集約した
【2011年3月12日】東日本大震災で被災した太田名部地区。防潮堤に守られた住宅は無傷だった(普代村提供)

2021年04月01日 公開
[2020年12月16日 岩手日報掲載]

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普代村・太田名部地区の津波供養碑

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