祝宴一変 2度大洪水

宮古市・磯鶏地区


 宮古湾に面し、昔から津波災害のリスクと直面してきた宮古市磯鶏(そけい)地区。1896(明治29)年の三陸大津波の被害をつづった海嘯(かいしょう)記念碑は、宮古市磯鶏石崎の国道45号沿いにひっそりとたたずみ、すさまじい被害を現代に伝える。
 津波後に現地調査した遠野市の実業家山奈宗真(やまなそうしん)(1847〜1909年)や中央気象台(現気象庁)の記録によると、磯鶏村では90〜100人が死亡する被害を受けた。石碑は磯鶏村民と有志が七回忌を機に建立し、漢文で津波襲来の状況を記した。
 端午の節句で各世帯が祝いの酒を酌み交わしていた状況が「阿鼻叫喚の地獄」に一変。数回の地震の後、遠雷のような異音が鳴り響き、大洪水が2度押し寄せた様子を描写している。
 明治の津波関連の石碑は供養碑が多い中で記念碑とし、高さ2・3メートル、幅0・9メートルの石に津波の状況や被害など多くの情報を書き残して子孫に教訓を伝えている。
 市教委文化課市史編さん室の仮屋雄一郎室長は「恐ろしい津波の被害を詳細に記すことで警鐘を鳴らし、後世の人々の命を守ろうとする当時の住民らの思いを感じる」と分析する。

「子孫守る」思い継承

そけい幼稚園の防災備品を確認し、早期避難の重要性を語り合う三浦直志さん(右)と晴山洌理事長=宮古市磯鶏沖
 「目の前が現実と思えなかった。防潮堤がある分、津波に対して住民の間で油断があったかもしれない」。東日本大震災の津波を目撃した宮古市磯鶏(そけい)石崎の三浦直志(なおし)さん(87)は振り返る。
 磯鶏石崎町内会の会長を長く務めた三浦さんは、勤務先から昼休憩で自宅に戻り地震に遭遇。車で妹を自宅へ送り、渋滞したため車を置いて宮古湾を見渡せる同地区の高台に避難した。
 海面がせり上がった時、防潮堤沿いの国道には車が列をなしていた。「車を捨てて逃げろ」。願いは届かず、津波が防潮堤を超えた瞬間に人、車、住宅が濁流に流された。三浦さんは街を破壊する「バリバリ」というごう音を忘れない。
 同市磯鶏沖のそけい幼稚園(晴山正子園長、園児140人)の晴山洌(きよし)理事長(86)も九死に一生を得た。当時の園児168人は訓練通り避難所の磯鶏小に避難したが、晴山理事長は「保護者が迎えに来るかも」と残り、交通誘導をしていた。最後の1人を磯鶏小へ向かわせた後に津波が来た。
 走って逃げたが周囲に津波が押し寄せ、横目に濁流が見えた。息が切れて動けなくなった瞬間に軽トラックの知人に救助された。
 晴山理事長は「自分は大丈夫という意識があった」と反省し、その後は全員避難を徹底。今も毎月1度の訓練を続け、送迎バスに無線を付けるなど災害への備えを強化している。
 同地区には明治と昭和の津波の記念碑があるが、存在すら知らない住民が増えた。2人は石碑の活用など記憶伝承の重要性を強く感じており、三浦さんは「先人たちが子孫を守ろうとした教訓を、われわれも次の時代に引き継がなければ」と気を引き締める。
宮古湾に面した磯鶏地区。住宅の再建も進み、宮古港インターチェンジも開通した(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年3月12日】 東日本大震災で住宅がなぎ倒された磯鶏地区

2021年03月01日 公開
[2020年09月04日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

宮古市・磯鶏地区の海嘯(かいしょう)記念碑

Google News Initiative(グーグル ニュース イニシアティブ) は Google がジャーナリズムの未来を切り開くため、報道業界とのコラボレーションを推進する取り組みです。世界各地で記者・編集者向けにデジタル技術の活用に関するワークショップやパートナーシッププログラムを展開しており、テクノロジーを最大限に活用して現代のジャーナリズムを巡る課題に取り組んでいます。