津波で流され再設置

釜石市片岸町・室浜地区


 山と海に囲まれた釜石市片岸町の小さな集落、室浜地区。防潮堤と家々の間の小高い丘に、10基の石碑が海を向いて並ぶ。中でも1933(昭和8)年の大津波の記念碑が、ひときわ存在感を放つ。
 石碑は津波からちょうど2年後の35年3月3日に建立された。当時は漁業で栄え、海上安全を願う金比羅様の石碑と合わせて元朝参りするのが住民の慣習だった。
 釜石市誌によると、昭和の大津波では死亡と行方不明合わせて3人が犠牲になり、12世帯が流失。
 東日本大震災では海抜5・8メートルの防潮堤を超えた黒い波が集落全体を覆った。被害は過去の津波をはるかに上回り、住家はほぼ全てが全壊。22人が犠牲になった。
 震災後、石碑は7、8メートル下まで流され、再び設置される今年3月まで無残に横たわったまま放置されていた。
 「大地震の後には津波が来る」。石碑に刻まれた言葉は住民の防災意識にどれほど根付いていたか。まちから漁業者が減り海の存在が遠ざかる中、教訓の伝承へ危機感が募る。

先人の教訓いま一度

すっかり変わったまちを見渡す佐々金一さん。「記念碑は後世に伝えられる唯一の引き継ぎだ」と、未来の防災を願う=釜石市片岸町
 「足袋はそろえて、枕元に置いて寝るんだよ」。夜中でもすぐ逃げられるようにと幼い頃祖父に聞いた言葉は、80年たった今も習慣として続いている。
 6歳のときに戦争で父を亡くし、室浜地区に住む佐々金一(きんいち)さん(85)は、祖父の故徳次郎に津波の恐ろしさを教えられて育った。生まれる前年に起きた昭和の大津波では、実家の風呂場まで水が流入したと聞いた。
 「海の近くにいれば津波はいつか来る」。祖父の伝え続けた言葉は、金一さんに深く染みついていた。
 2011年3月11日。妻光子(みつこ)さん(81)と高所の知人宅に避難した後、海の様子が気になり1人で大槌湾を見渡せる山の中腹に向かった。家々が黒煙を上げるようにだんだんと原形をなくしていく様子を前に、祖父の伝えたかった津波の恐さを初めて知った。
 同地区では高台避難後に海を眺めたり、奥の平地に逃げた人らが犠牲となった。光子さんと近隣住民計11人が避難したのも指定避難場所ではなかった。津波に足をさらわれながらなんとか皆生き延びたが、過去の被害状況から「ここまでは来ないだろう」という先入観が確かにあった。
 津波の脅威を伝えてきた石碑は流され、長らく放置状態に。金一さんは復元を切望し、町内会総会で訴え続けた。予算が課題だったが、工事業者が善意で直してくれた。
 だが、心配は尽きない。「復活したことを意識するのは何人あるんだか」。金一さんはつぶやく。震災から約9年半が過ぎ、室浜地区は震災前の約70世帯から19世帯に、漁業者も約40人から10分の1ほどに減った。元朝参りの習慣もこの間途絶えていた。
 漁業者が多かった昔、住民の信仰心は強かった。だが今、先人が残した石碑に目を向ける人はどれだけいるのだろう。「皆が通えるように」と草刈りをする金一さんは来年、10年越しの元朝参りに向かう。
釜石市片岸町の室浜地区。被災前の2.5倍となった高さ14.5メートルの巨大防潮堤がそびえ、かさ上げ地に住家が建った。草木の生い茂る中央の広場に石碑が並ぶ(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年3月23日】 津波は海抜5.8メートルの防潮堤を超え、地区一帯をさらった(釜石市提供)

2021年02月19日 公開
[2020年09月03日 岩手日報掲載]

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釜石市片岸町・室浜地区の津波記念碑

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