明治と昭和 津波被害

釜石市箱崎町


 釜石市の北東部、箱崎半島に位置する同市箱崎町。箱崎地区の入り口で、市中心部から通じる道路脇に、1896(明治29)年と1933(昭和8)年の三陸大津波に関する石碑が並ぶ。
 明治の大津波の石碑には、当時箱崎小に勤め、津波で命を落とした教員栃内泰吉の行動が刻まれている。同校の「百年の歩み」によると、栃内は高齢の母を家族に託し、明治天皇の写真を取り出して逃げる時に波にさらわれた。重傷を負い、55歳で亡くなった。
 釜石市誌などによると、箱崎地区は明治の大津波で住民432人のうち85人が犠牲になった。マグロ漁や貝類、海藻の採取手伝いで出稼ぎしていた住民も多く「留守家族の混迷もあって死者80余名を出した」という。65戸中26戸が流失。大津波の3カ月前に新築移転した同校の校舎も被災した。
 昭和の大津波の石碑は、大地震の後に津波が来ると教訓を残す。先人からのメッセージは「百年の歩み」にも。過去の津波被害をまとめたページにこの文章がある。「津波は必ずくると思いながらも時がたつにつれてその恐ろしさを忘れがちである」

新たな文言再び刻む

防潮堤や乗り越し道路の工事現場を見つめ、復興後のまちづくりについて語る荒屋正明会長=釜石市箱崎町
 「高い波がまちをのみ込んでいく。家がマッチ箱みたいに流されていった」。釜石東部漁協組合長の小川原泉さん(69)=釜石市箱崎町=は、9年4カ月前の東日本大震災を思い起こす。
 漁協事務所の2階にいた小川原さんは大きな揺れを感じ、手すりをつかみながら必死で1階に下り、外の広場に出た。数人を除いて職員を高台に避難させ、情報収集をしていた時、トラックのラジオから「大船渡で津波」と聞こえた。
 防潮堤を越えた波が見えたのはそれから間もなくだった。「津波来た。逃げろ」。大声で叫び、そのまま山に逃げた。間一髪だった。軽トラックで逃げた仲間が犠牲になったと知ったのは数日後だった。
 道路が寸断され、箱崎地区は孤立。被災を免れた家に住民が集まり、食料を持ち寄って炊き出しをした。避難者名簿を作り、住民の安否を確認した。
 着実に復興へ歩んできた同地区。自宅再建もほぼ終わり、箱崎漁港では県内最大級の14・5メートルの防潮堤の工事が終盤を迎えている。箱崎町内会の荒屋正明会長(75)は「地域の景色は変わったが、地域の歴史は残していかなければならない」と思いを強くする。
 残すべき一つが過去の津波を伝える石碑だ。「道路脇にあるし、みんな『きねんぴ』って言って、存在は子どもも知っていた」。こう語る荒屋会長だが「何が記されているか、その話は薄れてきているのかもしれない」とも語る。
 町内会は震災10年に合わせ、次世代への教訓を刻んだ震災碑を新たに整備することを検討。二つの石碑の修繕と周囲の環境整備も行う予定だ。
 どんな文言で震災の教訓を将来につなぐか−。地域を見守り続けてきた石碑に刻まれた過去の犠牲も無駄にしないため、協議する。
 荒屋会長は「津波だけでなく、多様な災害への備えの意識を徹底したい」とし、小川原さんは「何より生きなければならない。逃げることだ」と訴える。
県内最大級の高さ14.5メートルの防潮堤工事が進む箱崎漁港。高台に再建した住宅が並ぶ(岩手日報社小型無人機から撮影)
東日本大震災で被災した箱崎地区(東日本大震災 釜石市証言・記録集より)

2021年01月21日 公開
[2020年07月16日 岩手日報掲載]

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釜石市箱崎町の「忠烈永芳」

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