二つの津波犠牲刻む

洋野町・小子内地区


 洋野町の南東に位置し、海から山側まで広がる小子内(おこない)地区。大正時代に民俗学者柳田国男が訪れ、小子内浜にあった宿屋清光館に泊まったとされる。同館跡地の向かいに、過去に集落を襲った大津波の惨禍を伝える二つの碑が立っている。
 一つは1896(明治29)年の大津波と1933(昭和8)年の大津波で、集落が受けた被害を裏面に記した石碑。表面は地域の漁業改良に取り組み、明治の大津波で私財を投じた高見松太郎の顕彰碑になっている。もう一つの石碑は、昭和の大津波の被害状況と教訓を示す。
 二つの石碑はそれぞれ旧小子内小校庭と漁協裏にあったが、2000年以降に現在地に移った。同町種市の町史編さん員酒井久男さん(71)は「人の目に付きやすいよう、清光館跡地の近くに建て直したのではないか」と語る。
 旧種市町歴史民俗資料館の資料によると、明治の大津波で、旧中野村の小子内地区では住民301人中41人が亡くなった。昭和の大津波でも683人中4人が命を落とし、その後、海抜12メートルの防潮堤が建った。
 そして時は流れ、東日本大震災の津波が集落を襲った。

高台移転 命守る答え

洋野町の小子内地区。防潮堤(手前)が集落を守ったが、小子内漁港(右奥)は被災した(岩手日報社小型無人機から撮影)
 「地震は夜中に来るかもしれない。逃げられるとは限らない」。小子内浜漁協の畑川吉松組合長は静かに訴える。「津波が来ない所に住む。それが被害に遭わない一番の方法だ」
 2011年3月11日、大きな揺れの後、洋野町の小子内地区を襲った津波は防潮堤に遮られ、集落の人的被害はゼロだった。
 一方、防潮堤の海側の小子内漁港では漁船や作業施設などが流失。漁港沖の増殖溝で育っていたウニも無残に打ち上げられた。
 その後9年2カ月余り、一歩ずつ復興へ歩んできた畑川組合長は「漁もやっと軌道に乗ってきた」と真っ青な海を見つめ、「大きな被害もあったが、ここでは人の犠牲がなかった。不幸中の幸いだ」とかみしめる。
 かつて同地区は、海岸近くや海に注ぐ小子内川周辺に民家が多かったが、度重なる津波被害のたびに少しずつ高台へと移転。過去の犠牲は、住民の安全意識に教訓を刻みつけていた。
 今後、発生確率が「切迫した状況」(内閣府有識者会議)とされる日本海溝・千島海溝沿いの巨大地震など、震源によってはさらに大きな波が来る可能性もある。畑川組合長は「今度は防潮堤を大きく越えるかもしれない。(移転は)簡単なことではないが、それでもやはり高台に家を建てるべきだ」と力を込める。
 海と共に生きる集落で、宿命の津波とどう向き合っていくべきか−。小子内地区の碑は、一つの答えを静かに提示する。
 「あぶない所に家を建てるな」
 多くの犠牲に涙してきた地域の教えは、後世に脈々と受け継がれる。
小子内漁港で東日本大震災当時を思い起こす畑川吉松組合長=洋野町小子内
【2011年3月13日】 東日本大震災で被災した小子内漁港(洋野町提供)

2020年12月25日 公開
[2020年05月15日 岩手日報掲載]

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洋野町・小子内地区の津波記念碑

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