上流部も脅かす津波

宮古市田の神・一本柳の跡


 宮古市民の台所、同市五月町の市魚菜市場から西に500メートル。海から2キロ以上離れた津波とは無縁のような市街地に、腰の高さほどの石碑が立っている。
 「一本柳の跡」と刻まれた石碑は1989年、地元有志が1611(慶長16)年の三陸沖地震津波の言い伝えを残すため同市田の神の県道交差点脇に建てた。
 閉伊川下流に注ぐ山口川が近くを流れる。現在とは河道が違うが、当時の川を津波が逆流し、約1・5キロ上流の石碑近くまで舟を運んだとされる。
 石碑には「江戸時代」とだけあり、正確なところは刻まれていないが、市教委文化課市史編さん室の仮屋雄一郎室長は「藩制時代、東北地方が広く被災した慶長16年10月28日の津波だろう」と推察する。
 宮古由来記や盛合家文書によると、午後2時ごろ仙台・盛岡・津軽・松前藩領を大津波が襲った。釜石市の鵜住居(うのすまい)や大槌などで800人、津軽石で150人が犠牲となり、家を失った人は路頭に迷ったとされる。
 ちょうど400年後、2011年の東日本大震災で、石碑に記された言い伝えは再び現実となった。

伝承通り逆流 教訓に

宮古市中心部を流れる山口川。東日本大震災の津波が閉伊川河口に押し寄せ、支流の山口川を遡上(そじょう)した(岩手日報社小型無人機で撮影)
 「偶然にしては、あまりにも出来過ぎている」。宮古市の山口川をきれいにする市民ネットワーク(活動休止中)で長年事務局長を務めた、同市山口の摂待幸夫さん(69)は、驚きを隠せない。
 東日本大震災で太平洋から閉伊川に流れ込んだ津波は支流の山口川をさかのぼり、あふれるぎりぎりの水位で黒い水が逆流。言い伝えを再現するように、一本柳がかつてあった付近まで下流の船を押し流した。
 石碑建立者の一人で、2004年に83歳で亡くなった父壮一さんは熱心な郷土史家だった。文献などから海から離れた地域も津波と無縁ではないと知り、震災の20年以上前に警告していたことになる。
 津波は山口川の堤防をほぼあふれることなく、約1・5キロさかのぼった。摂待さんは、津波が氾濫しなかったのは川の清流化に取り組んできたことに由来する「幸運もあった」という。
 一本柳があった場所から数十メートル下流に、転倒堰(せき)と呼ばれるコンクリート製の設備がある。消防ポンプ車が発達していなかった時代、川からの取水を容易にするため水をせき止める垂直構造物で、震災のときは川底に伏せた状態だった。
 かつては転倒堰にたまった水にバクテリアが繁殖し水質汚染の一因になっていたが、火災で川から取水することもなくなったため、摂待さんは06年ごろ宮古消防署に依頼し転倒堰を下げてもらっていた。
 もしも転倒堰が起き上がった状態で津波の遡上(そじょう)を阻んでいたら「間違いなく川があふれ(津波被害を受けていない)西町の大半が水没していた」と振り返る。
 津波は海から離れた川の上流部をも襲う。摂待さんは、山口川美化に一緒に取り組む山口小児童に、出前授業などを通じて教訓と幸運を伝え続けている。
かつて近くに一本柳があり、言い伝え同様に船が流れ着いた場所を指し示す摂待幸夫さん=宮古市田の神・山口川
【2011年3月11日】 あふれる寸前の水位でさかのぼった津波の跡が残る山口川(摂待幸夫さん提供)

2020年12月21日 公開
[2020年05月14日 岩手日報掲載]

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宮古市田の神・一本柳の跡

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