住家低地建設に警鐘

陸前高田市広田町・大陽地区


 陸前高田市広田町の大陽(おおよう)地区は、大陽漁港へ向かう下り坂の脇に8基の石碑や石仏が立ち並ぶ。その中に1896(明治29)年の大津波の供養碑と1933(昭和8)年の大津波の記念碑がある。
 故山下文男さんの「哀史三陸大津波」によると、同地区は明治の大津波で6戸が流失し19人が死亡。有志が建てた供養碑は東日本大震災後の2016年、津波の記憶を未来に伝える遺産として市有形文化財に指定された。
 昭和の大津波では、死者はなかったが4戸が流失。翌年、同地区を含む同市広田町内の津波到達点7カ所に「低いところに住家を建てるな」などの教訓を刻む記念碑が整備された。
 住民によると、同地区でも高台移転が進み、1960年のチリ地震津波では住家被害、犠牲者ともなかった。
 この津波を契機に住民の防災意識が高まり、70年代には海抜5・5メートルの防潮堤が建設されたが、震災の津波は防潮堤を越えて集落を襲った。傾斜地で高台に逃げやすい地形と避難の際の声掛けが幸いし、発生時に地区内にいた人で犠牲者はいなかったが、石碑より低い家や海岸に近い6戸が全半壊した。

海離れ 薄れる危機感

「ここまで水が上がったんだ」と作業場の雨どいを指す大和田信哉さん。東日本大震災後海抜8・8メートルの高さになった防潮堤に遮られ、海は見えなくなった
 「少しぬれるかなとは思ったが、ここまで波が来るとは考えなかった」。明治の大津波後に海岸から約100メートル離れた坂の途中に移転した養殖業大和田信哉さん(64)の自宅は、東日本大震災の津波で母屋の1階、離れと作業場は2階までが浸水した。
 当日は自宅前でカキの出荷準備中に地震が発生。すぐに家族や近隣住民を避難させ、水門の閉鎖を手伝った。避難した高台で、潮が引き防波堤の底があらわになるのを目にした。「とんでもない津波が来る」と予感した通り、真っ黒な波は船や家々を押し流し、石碑の数メートル前まで迫った。
 避難時、無意識のうちに子どもの頃覚えた「機敏に高所へ」という石碑の教えを守っていた大和田さん。「てんでんことは言うけれど、早めに行動すれば避難の途中で何人かは車に乗せられる。そういう意識を家族の中で伝えていかなければいけない」とうなずく。 ただ、石碑に目を留める住民は少ない。石碑がある道は昔は徒歩でしか通れなかったが約60年前に道路が整備された。漁業佐藤博行さん(74)は「外で遊ぶたびに石碑の前を行き来して内容も覚えたものだが、みんな車で通り過ぎるようになった」と振り返る。 住民の多くが高台で暮らす大陽地区は、もともと津波避難訓練の参加者が少なかった。かつてのように海水浴をする人はなく、漁業者も年々減って、住民の「海離れ」が進む。佐藤さんは「『自分には津波は関係ない』と思いがちだが、石碑にある教えは大事だ」と訴える。
 家は高台でも、津波発生時に海岸近くにいないとは限らない。子どもたちへの伝承について「改めて機会をつくらなくても、何かの集会のときに経験者を呼んで話を聞くことはできる」と佐藤さん。「津波の時は決して戻ってはいけないという教訓や石碑の教えを伝えなければならない」と力を込める。
陸前高田市広田町の大陽地区。石碑は漁港からの坂を上がった写真中央に位置する(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2015年5月】 津波で押し寄せたがれきが撤去され、防潮堤の建設が進む大陽漁港(東北大災害科学国際研究所提供)

2020年11月20日 公開
[2020年04月09日 岩手日報掲載]

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陸前高田市広田町・大陽地区の大津波記念碑

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