低地での居住戒める

大船渡市末崎町・細浦地区


 大船渡市末崎町細浦地区の長源寺(谷山誠志住職)には、三陸沿岸を幾度も襲った津波を伝える二つの碑が並んで立っている。
 一つは1896(明治29)年の三陸大津波による溺死者之慰霊碑。建立の経緯や時期は不明だが、世話人に名を連ねる「滝田」や「紀室」姓は、現在も末崎町内で特徴的に見られる。
 「石巻町世話人」と刻まれており、同寺は石が現在の石巻市から運ばれてきたと推察。揮毫(きごう)者の「泥舟(でいしゅう)逸人」は、勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」として知られる高橋泥舟の可能性がある。
 もう一つは、藩制時代から1933(昭和8)年の三陸大津波までの犠牲者供養碑。裏面には慶長の大津波以降、過去に被害をもたらした地震と津波が記録されている。
 旧末崎村の山本周太郎村長の名前と、「昭和10年3月3日」の日付が刻まれ、「明治二十九年昭和八年両度ノ村内津波襲来地点ハ村内二十八所ニ設置ノ津波襲来地点標石ニ示ス」とし「いつかまた襲ふ津波を忘れずに海辺低きに住むな村人」と、津波常襲地帯に暮らす人々を戒める。

「万が一」想定し準備

東日本大震災の津波到達碑を建立した末崎町公益会の上部泉さん(右)と村上征一さん
 長源寺に立つ二つの碑は、津波は時を問わず何度でも襲うという沿岸の宿命を伝えているかのようだ。「海辺低きに住むな村人」という先人の警告は守られたのか。谷山誠志住職(61)は「津波が何度来ても、30〜50年たつと低い場所に家を建てることを繰り返している」と実態を語る。
 東日本大震災の前は、地域の避難訓練は寺より低地で海沿いのJR大船渡線の線路沿いを目指す形で行われていた。そして2011年3月11日、津波は線路を乗り越え、同市末崎町の犠牲者は64人に上った。
 震災前、谷山住職は高台の同寺を指定避難所とするよう行政に掛け合っていたが、かなわなかった。震災当日、寺には避難者約100人が押し寄せた。なぜ、避難所に指定されなかったのか、疑問は今でも残る。
 「『下に建てるな』と言うが、建ててしまったらどう避難するかを考えることが大切だ」と説く谷山住職。被災後を想定してボランティアの受け入れ策を練るなど、「万が一」が起こる前に準備を尽くす重要性を痛感している。
 寺の参道には17年、地縁団体末崎町公益会(新沼真作理事長)が震災の津波到達碑を建立した。犠牲者の慰霊と鎮魂、後世への伝言を目的に、同市末崎町内の13カ所に設置。二度と悲劇を繰り返さぬよう、道路沿いなど人目につきやすい場所を選び抜いた。
 だが、同市末崎町では閉鎖した製塩工場の跡地利用策としての住宅地整備や、漁港開発に伴う低地への移住など、社会情勢によって居住が海沿いへと迫った歴史がある。
 建立当時に同会理事長だった上部泉さん(79)は「なぜ碑が建てられたのか趣旨を理解していないと、なかなかね」と、一抹の不安を抱える。
大船渡市の末崎町細浦地区。写真中央下部に位置する長源寺に碑がある(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年3月11日】 津波が襲った細浦地区(滝田昇さん提供)

2020年10月30日 公開
[2020年01月22日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

大船渡市末崎町・細浦地区の溺死者之慰霊碑

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