社員弔い製鉄所建立

釜石市・大只越町


 釜石市の中心市街地にほど近い同市大只越町の石応禅寺(都築利昭(りしょう)住職)。境内には1896(明治29)年の地震津波で犠牲になった釜石鉱山田中製鉄所(現・新日鉄住金釜石製鉄所)の社員を弔う「三陸大海嘯(かいしょう)溺死者弔祭之碑」が立つ。
 市誌によると、明治の三陸大津波で釜石町釜石は人口5274人のうち3323人が命を落とし、全戸数の8割に当たる791戸が被災。犠牲者の中には「鉄のまち釜石」の礎を築いた田中製鉄所の社員やその家族103人が含まれる。
 石碑は発生の翌年、檀家(だんか)の社員が多かった同寺に建てられた。建立者は同製鉄所と東京本店、大阪支店の3者で「生き残った同僚たちは痛悼の情を禁じ得ず」との記載は、当時の衝撃の大きさを思わせる。
 115年を経て襲った東日本大震災。津波はすぐ同寺の手前まで迫ったが、周囲よりやや高い位置にあるため、ぎりぎり被災を免れた。だが、市内全域では1064人もの犠牲者を出し、寺には数百柱の遺骨が納められている。
 無情な災禍で亡くなった人たちの冥福を静かに祈るこの場所は、地域の教訓を伝え続ける大事な役割も担う。

「心の傷」に寄り添う

釜石市の中心部。復興事業のハード整備はほぼ完成した(岩手日報社小型無人機で撮影)
 「大量のがれきや緊急車両で寺までたどり着けなかった」。石応禅寺の都築住職(50)は、あの日を振り返る。
 東日本大震災は仕事で盛岡市に出掛けていた際に発生。地元を案じ、急いで車を走らせた。ようやく釜石に入れたのは夜遅く。がれきに埋もれたまちは混乱を極め、思うように移動できなかった。
 何とか立ち寄ったのは釜石市大渡町の釜石のぞみ病院。1階は浸水していたものの津波に耐えた建物内で一晩を過ごし、翌日、寺に戻ると本堂には約70人が身を寄せていた。
 同寺がある同市大只越町はやや高い位置にあり、津波犠牲者はいなかった。だが、すぐ隣の同市只越町では48人の死者・行方不明者を出し、多数の住家が流失。3月末まで寺は避難者の生活拠点となった。
 檀家(だんか)も約240人が亡くなり、葬儀は秋まで連日続いた。これまで多くの遺族と接してきた都築住職は「残された人たちの心の傷は時間では解決できない」と寄り添い続ける。
 歴史上、幾多の津波に襲われては、懸命に復興を成し遂げてきた本県沿岸部。かつて製鉄業で栄えた同市はよそから働きに来る人が多く、「津波から身を守る」との意識と教訓を、立場や世代を超えて十分継承することが難しい土地柄でもあった。
 震災から8年9カ月。市街地のハード整備はほぼ完成し、真新しい釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムではラグビーワールドカップ(W杯)の開催を通じて世界に復興を発信した。だが、またいつの日か、海が突如牙をむくときが来る。
 都築住職は2013年、境内に新たな石碑を建立した。碑文には「永久に教訓となることを」の文字。「通りすがりに、震災に思いをはせてほしい」と願う。
震災の教訓継承を願い、新たな石碑を建立した都築利昭住職
【2011年3月15日】 大津波は石応禅寺(奥)の手前まで迫り、周辺をがれきが覆った(市郷土資料館提供)

2020年09月01日 公開
[2019年12月17日 岩手日報掲載]

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釜石市・大只越町の三陸大海嘯(かいしょう)溺死者弔祭之碑

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