有志集い昭和に再建

釜石市・平田地区


 釜石市平田の県道桜峠平田線脇、館山神社に上がる階段の入り口に「海嘯(かいしょう)記念碑」はある。1896(明治29)年、1933(昭和8)年の大津波の被害と教訓を今に伝える。
 釜石市誌によると、明治の津波で平田(釜石町平田)では1255人のうち718人が犠牲になり、149戸中107戸が被災。昭和の大津波では1人が犠牲になり、109戸中15戸が流失した。
 石碑は57(同32)年に建立された。碑文によると、02(明治35)年に明治津波の犠牲者遺族がいったんは慰霊碑を建てたが、自然石のため風化して修復不能となり、有志らが石碑の再建を計画。同市の石応寺(現石応禅寺)16世の雲山午朗住職に碑文を依頼した。碑文の最後には、後世への教訓として忘れないようにとの願いが刻まれている。
 同市平田の久保知久さん(71)によると、碑は国道45号沿いに建立されていたが、70(昭和45)年の岩手国体開催に伴う道路拡幅で、72(同47)年4月に現在の場所に移転した。
 ただ、碑文の内容を知る機会は少なく、久保さんは「どんな思いで先人が碑を建立したか。残っているものを生かさなければならない。心構えとして、今を生きる人が再認識する必要がある」と強調する。

慰霊、伝承へ新設計画

土地区画整理事業で整備された宅地に住宅が立ち並び始めている平田地区(岩手日報社小型無人機で撮影)
 「真っ黒い津波に家も船も巻き込まれて…。平田のまちが海になった。声も出なかった」。釜石市平田の漁業久保義明さん(70)は東日本大震災時の津波被害をこう振り返る。
 2011年3月11日。久保さんは母が入院する県立釜石病院に向かう車中で地震に遭遇した。「津波が来る」。平田で生まれ育ち、チリ地震津波や十勝沖地震も経験した久保さんはすぐに高台の自宅に戻った。
 館山神社境内は市の避難場所に指定され、地震発生後には神社に上がる階段の入り口周辺に住民が集まっていた。「津波が来るぞー」との叫び声が聞こえ、住民らは久保さん宅近くの高台の空き地に避難。病人や高齢者もいたことから、山を越えて旧釜石商高に避難した。
 市の記録によると、平田では震災で3410人のうち22人(死者20人、行方不明者2人)が犠牲になり、171戸が全壊した。家庭内での「教え」から地震発生後に早期避難したと証言する住民がいる一方、過去の被災経験などから逃げ遅れた住民もいたという。
 「過去の災害や石碑に刻まれた教訓も含め、地域の歴史を学ぶ機会が必要だ」。こう考える久保さんは「災害時は自分で判断しなければならない。高齢者も多い地域内で声掛けして逃げる仕組みが大切。命を守り、その後どう生き抜いたのか伝えていかなければ」と改めて誓う。
 震災から8年半余り。土地区画整理事業で整備された宅地には新しい家が立ち並び始めた。平田町内会では、震災犠牲者名を刻んだ慰霊碑を建立する計画があり、前川輝夫会長(71)は「犠牲者を悼むとともに、多くの犠牲を生んだ震災の記憶、先人からの教訓を後世に残す必要がある」と力を込める。まちの姿が変わろうとも、継承すべき教訓は変わらない。
かさ上げ地に立ち、教訓の継承を誓う久保義明さん(左)と前川輝夫さん
【2011年3月11日】 東日本大震災の津波で海と化した平田地区(久保知久さん提供)

2020年06月19日 公開
[2019年09月18日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

釜石市・平田地区の海嘯記念碑

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