高台から移し再設置

久慈市宇部町・久喜地区


 海女のまちとしても知られる、久慈市宇部町久喜地区。山の急斜面に集落の家々が集まり、久喜漁港近くにある市漁協久喜地区漁村センター前には、1933(昭和8)年の大津波の記念碑がたたずむ。
 市史によると、1896(明治29)年の大津波で、旧宇部村では人口2244人のうち160人を超す犠牲が出た。昭和の津波では死者1人、行方不明者6人。明治と比べて人的被害は少なかったが、船舶被害は172隻に上り、共に浜に深い爪痕を残した。
 碑文によると、記念碑が建てられたのは昭和の大津波のちょうど1年後。地域住民によると、石碑はかつて集落高台にある恵比須(えびす)神社に建立されたが、土砂崩れなどで倒れた。見かねた住民たちが、高台から現在地付近へと移設したという。2メートル超の石碑をふもとまで下ろした先人の苦労は計り知れない。
 一度は倒れたが、再び住民によって起こされた石碑。裏に刻まれた「強い地震は津浪の報(しら)せ」の文字は、教訓を静かに伝え続けてきた。そして時代は平成へと移り、再び集落を巨大な波が襲った。

早い避難 意識づける

泉川博明会長(左から2人目)ら住民有志が建てた東日本大震災の大津波記念碑。隣には昭和の大津波記念碑が並ぶ
 久喜地区を見守ってきた昭和の大津波記念碑。その隣には、東日本大震災の大津波記念碑が並ぶ。刻まれた碑文は「大地震の後には津波に用心/直ちに近くの高地に避難」。平成の震災で傷を負った住民たちが、次世代に残す言葉だ。
 あの日。12メートルの防潮堤を越えて、集落に波が流れ込んだ。幸い人的被害はなかったが、地域住民によると約20軒の民家が全壊または半壊した。市漁協久喜地区漁村センターも全壊し、昭和の大津波記念碑も土台から壊れて横倒しになった。
 市消防団副団長で、当時久喜地区の消防分団長だった川戸道(かわとみち)達三さん(65)は「地震の大きさからただごとではないと感じた。だが集落の人たちも、まさかこの防潮堤を越えるとは思わなかっただろう」と振り返る。
 浜のなりわいも大きな打撃を受けた。久喜漁業生産部長の坂本訓一さん(75)は「大小100隻近い船が被害に遭った。高齢の漁業者の中には辞めてしまった人も多い」と肩を落とす。
 震災の約2年後、住民有志の間で記念碑を建てようという話が持ち上がった。新たに「久喜浜 漁村文化と歴史を守る会」を設立して動き、地元企業の寄付や市の補助などを受けて2014年に碑を完成させた。
 当初は高台に建てるべきだとの意見もあったが、漁業者や住民が普段から目に付く場所にとの声が集まり、漁港への通り道である現在地に建立した。同会は、16年には昭和の記念碑の土台も建て直し、新たな記念碑の隣に移設した。
 同会の泉川博明会長(71)は「碑を通し、震災の経験や犠牲を出さなかったことを後世に伝えていきたい。『とにかく早く逃げる』という教訓を、子どもたちに継承していく」と力を込める。
 昭和、平成と二つ並んだ津波記念碑。刻んだ思いは変わらず、さらに時代を超えて伝え続ける。
山の斜面に家々が集まる久慈市宇部町の久喜地区。右下の市漁協久喜地区漁村センター前に二つの津波記念碑が並ぶ(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年3月13日】 東日本大震災で被災した久慈市宇部町久喜地区(市提供)

2020年06月01日 公開
[2019年09月17日 岩手日報掲載]

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久慈市宇部町・久喜地区の昭和大津波記念碑

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