明治の大津波に学ぶ

山田町・船越地区


 船越半島の付け根に位置する山田町船越地区の中心部は、山の斜面に規則正しく家屋が並んでいる。北側を山田湾、南側を船越湾に囲まれた低地部では、鯨と海の科学館がある船越公園や浦の浜海水浴場があるが、住んでいる人はほとんどいない。幾度も津波が襲った歴史から、人々は高台での生活を選んだ。
 山田町津波誌によると、1896(明治29)年の大津波では旧船越村の人口2295人中1327人が犠牲になった。474戸あった住居は371戸が流失し、壊滅的な被害を受けたことが分かる。「岩手県沿岸大海嘯(かいしょう)部落見取絵図」には「本村津浪ハ南北ヨリ打込ミ」との記述があり、山田湾、船越湾の両方から津波が流れ込んだことが記されている。
 明治の大津波を受け、多くの人が西側にある山の斜面に移住した。今の町の形はその時の名残だ。
 国道45号から少し脇道に入った場所に立つ1933(昭和8)年の大津波の大海嘯(かいしょう)記念碑には、船越地区の死者は3人、流失23戸と被害が刻まれている。明治の津波の教訓は、多くの命を救った。
 それから約80年の月日が流れ、町内で824人が犠牲になった東日本大震災の津波が襲った。

高台に住む意識継ぐ

鯨と海の科学館の目玉展示マッコウクジラの骨格標本は震災で奇跡的に無事だった。再開2周年イベントでは多くの来場者がその姿を目に焼き付けた
 2011年3月11日、船越公園内の鯨と海の科学館で業務に当たっていた指導員の道又純さん(70)。大きな揺れで津波の襲来を直感し、すぐさまほかの従業員を帰宅させ、自身は館内の漏電や火災の有無を確認するため残った。
 戸締まりを済ませ、乗用車で西の高台方面へ向かう道中、船を巻き込んだ津波が今にも船越湾側の防潮堤を乗り越えようとしていた。振り向くと、山田湾からも津波が迫っていた。甚大な被害をもたらした明治の大津波と同じ状況だった。
 「このままではまずい」。道又さんはすぐに乗用車を乗り捨て、JR山田線(当時)の線路を目指して斜面を駆け上がり難を逃れた。
 南北から迫った津波は、船越公園の全てを巻き込んだ。同科学館に約8万5千点あった収蔵物は大半は損壊、流失。浦の浜海水浴場は休止し、防潮堤や防潮林は大きく破壊された。
 しかし、明治の大津波の教訓から、低地部には住居はほとんどなかったため、人的な被害を抑えることができたといえる。震災記録誌「3・11 残し、語り、伝える 岩手県山田町東日本大震災の記録」によると、船越地区の被災家屋は204戸で、地区全体の26・4%に当たる。町内全体の被災家屋は3369戸(全体の46・7%)、大沢地区の68・8%、山田地区の61・9%と比べると低い割合だ。
 船越公園は17年にほぼ元の姿を取り戻し、再開2周年を迎えた鯨と海の科学館では記念事業が開かれた。復旧した浦の浜海水浴場も町民や観光客でにぎわっている。
 「高い所に住む」。簡単なようで、長い月日の経過とともに忘れ去られることがある教訓。高台移転した先祖の遺志が現代に伝わっている。
北(写真左)は山田湾、南は船越湾に囲まれた船越半島の付け根の低地部。高台には住居が並ぶ(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2013年1月6日】 花や遊具は全て流され、がれきの仮置き場となった船越公園(道又純さん提供)

2020年05月21日 公開
[2019年08月23日 岩手日報掲載]

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山田町・船越地区の大海嘯記念碑

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