教訓生きず被害甚大

大槌町・赤浜地区


 大槌町吉里吉里の吉里吉里学園中学部の裏山にある石材店の資材置き場に、1933(昭和8)年の大津波の教訓を伝える「大海嘯(かいしょう)記念碑」がある。東日本大震災当時、同町赤浜にあった石碑で津波で流されたが破損はなかった。震災後は旧赤浜小校庭に建てられたが、2014年度に同校庭で行われた町の文化財発掘事業やその後の復興工事との兼ね合いで一時的に石材店に預けられており、本年度中に赤浜に再建される。
 記念碑は1934(昭和9)年に赤浜地区の海岸から約200メートルの当時の国道沿いに建てられ、60年代ごろに海岸そばに移設。大槌町史などによると、同地区では1896(明治29)年の大津波で住家23軒が被災、30人が犠牲になり、この時の津波浸水域との境に記念碑が建てられたといわれている。
 昭和の大津波では赤浜を含む当時の吉里吉里村で119軒が被災、10人が亡くなった。仮設の町中央公民館赤浜分館の神田義信分館長(73)によると、同地区は昭和の大津波や1960(昭和35)年のチリ地震津波で浸水したが、人的被害は語り継がれなかった。その後6・4メートルの防潮堤ができたことで住民には油断も生まれ、海岸そばにも住居を構えたが、そこに東日本大震災の津波が襲った。
 自身も海岸近くの自宅が被災した神田分館長は「津波はいつものレベルだろうと海岸を見に行った人や避難しなかった人が犠牲になった。教訓は生きず、認識が甘かった」と振り返る。

高台避難 簡潔に刻む

東日本大震災大津波記念碑の前で「高台に移ったから安全ではない」と強調する神田義信分館長
 大槌町赤浜地区では東日本大震災で住民約960人中、1割の93人が亡くなり、民家は半分超の約190世帯が被災した。地震発生時に町中央公民館赤浜分館にいた神田分館長は「建物が斜めに揺れ、津波が来ると感じた」と言い、地震後マイクを持ち、自家用車で避難を呼び掛けて回った。
 海抜約8メートルの場所にあった旧赤浜小体育館付近で住民が撮影した写真には同館の外に20人以上が避難し、一様に海の方向を見つめる姿が写っており、「津波はここまでは来ない」と思っていた様子がうかがえる。
 だが、そこに想像を超える大津波が襲い掛かった。神田分館長は同館周辺で体が不自由な高齢者の避難介助をしていて津波にのまれたが、奇跡的に助かった。館内は第1波で床上浸水。住民たちは第2波に備え、裏の急斜面を駆け上った。
 震災後、県は他地区と同様に14・5メートルの巨大防潮堤を建設する計画を示したが、昔から漁師まちだった赤浜の住民は「海が見えるところに住みたい」と防潮堤の高さは従来と同じ6・4メートルを要望。住宅造成地は今回の浸水域より高い海抜15メートル以上とすることを決めた。
 同地区では用地取得の難航で復興が遅れ、今年3月、ようやく防災集団移転促進事業の宅地造成が終了。年内に本県沿岸部最後の災害公営住宅が完成する。生活再建と並行し、次の災害への備えも進めている。
 赤浜地域復興協議会は昨年3月、県道沿いに東日本大震災大津波記念碑を建立。「地震が発生したら高台に避難せよ」と簡潔な言葉を刻んだ。海抜約20メートルの場所に再建が進み、今秋完成する同分館は備蓄倉庫などの避難所機能を備える。
 神田分館長は「15メートル以上の場所にいるから安心とは言い切れない。前回より高い津波が来るかもしれないことを胸に刻み、地震がきたら逃げなければならない」と気を引き締める。
東日本大震災後、高台に住宅再建が進んだ大槌町・赤浜地区周辺(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年3月16日】県道の両側ががれきで埋まった大槌町・赤浜地区

2020年05月01日 公開
[2019年08月22日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

大槌町・赤浜地区の大海嘯記念碑

Google News Initiative(グーグル ニュース イニシアティブ) は Google がジャーナリズムの未来を切り開くため、報道業界とのコラボレーションを推進する取り組みです。世界各地で記者・編集者向けにデジタル技術の活用に関するワークショップやパートナーシッププログラムを展開しており、テクノロジーを最大限に活用して現代のジャーナリズムを巡る課題に取り組んでいます。