参拝で心に刻む脅威

釜石市平田・尾崎白浜地区


 釜石市平田の尾崎白浜地区。集落の西側に位置する共同墓地には、1896(明治29)年に発生した地震津波の惨状を伝える海嘯(かいしょう)横没者供養塔が立つ。
 石碑は発生翌年に建立された。長い年月がたち、風化が進んだ碑文に目を凝らすと、集落から300人以上の犠牲者が出たことや、大多数の家屋が流失したことが読み取れる。
 市郷土資料館によると、明治の大津波で同市は人口の約半数に当たる6477人が亡くなった。故上飯坂哲さんの「津波てんでっこ考」はこれほどの犠牲者が出た理由の一つとして、過去の経験の風聞が油断をもたらしたと推測している。
 過去の教訓をどのように受け継いでいくのか。甚大な被害を受けた同地区の住民はお盆になると石碑を参拝し、津波の脅威を心に刻むとともに避難の意識を高めた。
 1933(昭和8)年の大津波では同地区の犠牲者は4人。明治の津波の教訓が生かされたとの見方ができる一方、再び犠牲者が出た。
 時代は平成になり、昭和の津波を経験した世代が少なくなる中、またしても東日本大震災で大きな津波が襲来した。

津波到達点の目印を

東日本大震災で4人の犠牲者が出た釜石市平田の尾崎白浜地区(岩手日報社小型無人機で撮影)
 東日本大震災の津波で尾崎白浜地区では高齢夫婦と、出産で里帰りしていた女性とその子どもの4人が犠牲になった。東京大新領域創成科学研究科の神田研究室の調査報告書によると、工作物を含む全241戸のうち、4割に当たる96戸が被災した。
 発災直前まで漁港でカキの養殖作業をしていた佐々木栄一さん(82)、和子さん(80)夫婦は自宅に帰ろうと軽トラックを走らせたところで地震に遭遇した。栄一さんは「車が激しく揺れ、車内から見た電柱は今にも折れそうだった」と振り返る。
 夫婦は閉まろうとしていた水門を間一髪で通過すると、車を止めて高台に駆け上がった。経験したことのない大災害を予感した栄一さんは高台にある自宅からカメラを取り出すと、壊れていく集落の光景を追いかけてシャッターを切った。
 明治と昭和の大津波で犠牲者が出た同地区。住民は子どもの頃から油断の怖さを教わり、迷わず高台に避難する習慣を身につける。だが、栄一さんは地震直後「水門があるからある程度は大丈夫だと思っていた。避難して助かったものの絶対に安易な想定はいけない」と自戒する。
 再び発生した大災害を受け、地元町内会は震災の翌年、漁港の西側高台に教訓を伝える石碑を建立した。「大地震の後は 大津波が必ず来る 迷わず直ぐに より高台に逃げよ 決して戻るな」
 石碑は「この碑の直下まで」津波が押し寄せたことも伝えている。だが、震災から8年4カ月余が経過しても同地区には具体的に津波の到達点を示すものがない。栄一さんは「当時を知る人がいるうちにリアルな恐怖を伝えなければならい」と津波がどこまで来たか分かる目印を後世に残す必要性を訴える。
東日本大震災の教訓を伝える石碑の前で海を眺める佐々木栄一さん
【2011年3月11日】 東日本大震災の津波で被災した尾崎白浜地区(佐々木栄一さん提供)

2020年02月28日 公開
[2019年07月18日 岩手日報掲載]

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釜石市平田・尾崎白浜地区の海嘯横没者供養塔

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