逃げて戻らず 戒めに

岩泉町・小本地区


 岩泉町内を横断し太平洋に注ぐ小本川の河口に位置し、天然ワカメやアワビなど豊かな水産資源で栄えてきた同町小本地区。1896(明治29)年と1933(昭和8)年の三陸大津波のほか、東日本大震災津波で甚大な被害を受けた。
 小本浜漁協旧事務所前には、昭和三陸大津波の翌年に建立された「海嘯(かいしょう)記念碑」が流失せずに今も立っている。
 碑を建てたのは当時の小本浜漁業組合(現小本浜漁協)。表の面には「午前三時襲来 津浪と見たらすく山に」と教訓を後世へ伝える。裏面には組合員や家族の犠牲者数、漁船や定置網などの復旧費が細かく記されている。
 町教委が1980年に発行した岩泉地方史(下巻)によると、小本村では昭和大津波で死者行方不明者は155人。明治の津波は367人が犠牲となった。
 碑の近くで菓子店を営む鈴木孝徳さん(64)の祖父徳治さんは昭和の大津波で命を失った。享年59歳。徳治さんは一度高台に避難したが家に物を取りに戻り、津波にのまれたという。
 2011年3月11日、地震後すぐに避難した孝徳さんは自家用車を取りに自宅へ戻るか一瞬迷ったという。「父親から一度逃げたら決して戻るなと教わってきた」。英断の数分後、自宅周辺は津波に襲われた。
 孝徳さんは受け継いだ教えを守り、命を守った。

連帯感がつなぐ心得

小本川水門を越えた津波と、水門と山の間からの津波が押し寄せ被災した小本地区(岩手日報社小型無人機で撮影)
 国交省の津波史跡調査概要によると、明治と昭和の三陸津波、チリ地震津波で残された青森、岩手、宮城の石碑は300基超。多くは個人や市町村などが建てたものだが、漁業組合が建立したものはほぼない。
 あまり例のない石碑はなぜ建てられたのか。岩泉町で2017年度から台風10号による石碑被害を調査している八木光則岩手考古学会会長(66)は「他の漁業組合と比べて態勢がしっかりしていたのだろう。経済的基盤や人々の結束が強かったのではないか」と推測する。
 1989年発行の小本浜漁協創立40年史編集委員を務めた同漁協の故上下(かみした)宗一元参事は、小学4年のときの昭和津波の体験として「街の中は、生残った人は子を、兄弟を、そして父母を求めて泣き叫ぶ声、愛児を背負ったまま息ぎれて亡くなった人も見た。亡くなられた人にすがって泣いている人、あまりにも悲惨な有様であった」と記している。
 小本村の犠牲者の約3分の1が組合員やその家族だった。昔から漁業者が中心となって行事や祭りを行ってきた地域。復興へ歩む自立の精神、仲間や子孫を思う連帯感が、震災や津波の経験を通じて広がったとしても不思議ではない。
 これらを裏付けるように、同町小本の宗得寺には小本村の漁師により建てられた明治三陸津波の海嘯溺死者供養塔などがある。
 同漁協の三田地和彦組合長(71)は「海に生きる者は必ず自然災害にあう。資料がないため理由は分からないが、人任せにはせず、石碑を建てて後世に伝えるのが当然だと考えたのだろう」と先人の思いを察する。
 その精神は脈々と続く。東日本大震災津波で小本地区では同漁協組合員ら3人が犠牲となった。小本地域振興協議会や同地域の津波記念碑建立実行委員会を中心に、震災後初となる新たな記念碑を来年3月までに建てる計画が進んでいる。
 津波の宿命を背負い生きてきた小本の人々。次の世代へ伝えたいメッセージがここにある。
「自宅に戻ることを諦めた数分後に東日本大震災の津波が押し寄せてきた」。実際に避難した場所から当日の様子を語る鈴木孝徳さん
【2011年3月】 東日本大震災津波で甚大な被害を受けた小本地区(岩泉町提供)

2020年01月31日 公開
[2019年06月19日 岩手日報掲載]

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岩泉町・小本地区の海嘯(かいしょう)記念碑

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