大惨事の教訓後世に

野田村野田


 野田村野田の寺院、海蔵院(福盛田克彦住職)の境内。柔らかな木漏れ日が差し込む正門からすぐの場所に1896(明治29)年の三陸大津波の犠牲者を悼む「海嘯(かいしょう)遭難供養塔」が立つ。
 県昭和震災誌などによると、村を襲った大津波は高さ約9メートル。当時の住民2590人の1割に当たる258人が犠牲になり、472戸中90戸が流失する大惨事だった。
 昭和へと時間が流れ、村の被害や教訓を後世に伝えようと1928(昭和3)年6月15日、三十三回忌に当たり檀家(だんか)の宇部静(まこと)さん(故人)が建立した。文面は、盛岡出身の原敬が首相の際に朝鮮総督府政務総監だった水野錬太郎の手による(建立時は文部相)。
 33(昭和8)年に再び地域を襲った大津波で、村の犠牲者は6人。それと比較しても、明治の被害規模がどれほど大きかったかが分かる。
 静さんは元一関商工会議所会頭の貞宏(ていこう)さん(故人)の父。貞宏さんの妻スヤ子さん(77)=一関市三関=は「海蔵院を訪れる時には、必ず石碑に手を合わせて祈ってきた。静さんの思いが地域に末永く受け継がれてほしい」と願う。

油断せず逃げる 啓発

復興ハード事業をほぼ終え、穏やかさを取り戻しつつある野田村の中心部(岩手日報社小型無人機で撮影)
 明治の三陸大津波から115年後。東日本大震災でも野田村野田は大きな被害に見舞われた。村内の28人、村外の9人が犠牲に。大津波は村中心部まで押し寄せ、311棟が流失、136棟が大規模半壊した。
 「海嘯(かいしょう)遭難供養塔」のある海蔵院では、寺院前の小川をさかのぼって門前まで津波が迫った。高台のため境内の被害は免れ、敷地内の会館などに被災者約130人が身を寄せた。井戸水での炊き出しや毛布、衣類の提供などで厳しい避難生活を支えた。
 福盛田克彦住職(76)は「津波が目の前まで来たので避難先として適当かは分からない。だが、再び大きな災害が起きた場合、できる限り支援をする」と力を込める。
 村消防団第1分団の田中正勝分団長(69)は、村中心部で経営する時計眼鏡店が1階天井付近まで浸水。近所の村役場で避難生活を送りながら約1カ月、懸命に行方不明者を捜索した。震災後の村では、津波を想定した避難訓練に力を入れているが、地域防災の要である消防団のなり手は減少傾向。田中分団長は「人手確保に力を入れる」と手探りする。
 第1分団の屯所も津波で被災し、海蔵院の近くに再建された。その一角に、同村を管内に持つ久慈ロータリークラブ(新淵宏会長)は2013年、石碑を建立。「津波襲来の地」と大きな文字で記し、震災発生の日付と「犠牲者の鎮魂と慰霊に思いを籠(こ)め、今次の震災が永久に教訓となることを願ってこの地に建立する」と刻んでいる。
 当時会長だった久慈市新井田の小野寺伝(つとう)さん(66)は「石碑のある場所は海が見えないのに、津波が届いた。次の津波では油断せず、さらに高く、遠くへ逃げる心構えを持つ。そのきっかけになってほしい」と願う。
野田村消防団第1分団の屯所前の石碑。震災津波の教訓を後世に伝える
【2011年3月】 大津波が国道45号(右奥)を越え、三陸鉄道のレールを枕木ごと押し流した=野田村野田

2019年12月27日 公開
[2019年05月21日 岩手日報掲載]

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野田村野田の海嘯(かいしょう)遭難供養塔

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