避難促す先人の心得

普代村・太田名部地区


 普代村の東に位置する太田名部地区。漁港を備えた村漁業の要となる地域だ。集落と海を隔てる巨大な防潮堤の近くに「津波記念塔」がたたずむ。
 村や地域住民によると、記念塔はかつて太田名部公民館付近に建立されていた。だが1961年の三陸フェーン大火で地域一帯が焼け野原となり、記念塔も焼け崩れたことから、80年に住民が現在地に再建。高台避難の心得が刻まれている。
 村によると1896(明治29)年の大津波では集落41戸のうち37戸が流失し、住民267人中196人が犠牲となった。1933(昭和8)年の大津波では255人中99人が亡くなった。ともに村内で最大の被害を受けた地区となった。
 「ある家では死んだ人の名を呼んで外に出て泣いて居るのだった。消防に聞いて見ると太田名部は全めつだと言っていそがしさうに走り廻(まわ)って居るのだった」。昭和の大津波当時の普代尋常高等小(現普代小)の児童の作文集(村教委発行)には集落の惨状が記されている。
 3度目の被害を出してはならない—。67年に当時の和村幸得(こうとく)村長(故人)の強い意向で海抜15・5メートル、延長155メートルの太田名部防潮堤が完成する。和村村長は、明治の大津波で到達した15・2メートル以上の高さにこだわった。
 そして平成の時代、再び大津波が村を襲った。

染みついた再起の力

太田名部防潮堤から海を見つめ、震災当時を思い起こす(右から)太田文吾さん、釜谷寿人さん、砂合秀道さん
 2011年3月11日。太田名部地区に住む漁業太田文吾さん(85)は高台に避難し、海を眺めた。見たことのない大きな波。防潮堤を越えるか—。不安がよぎったが、そびえる高い壁は水を阻んだ。「浜の船は粉々。でも家が助かったから復旧も早かった」
 東日本大震災による太田名部地区内の死者、行方不明者はゼロ。明治の大津波では住民の7割、昭和の大津波では4割を失った集落は「3度目」を繰り返さなかった。太田名部防潮堤と普代川に立つ普代水門によって浸水を最小限に抑えた普代村は、震災後に「奇跡の村」とも称された。
 しかし集落の住民は決して防潮堤の存在を過信していたわけではない。当時、村消防団の副分団長だった砂合(すなごう)秀道さん(57)は、住民が防潮堤を伝って山の上まで避難した光景を思い起こす。「(津波の)でかいのが来る。自分も慌てて駆け上がった」
 津波や火災で幾度も被災し、その都度再建してきた太田名部地区。昭和から集落の写真を撮っている釜谷寿人(ひさと)さん(76)は「災害に敏感なこと、そして立ち直ることが染みついた地域かもしれない」と語る。
 久慈消防署普代分署の熊谷正志分署長も「太田名部の人はかなり避難意識が高い」と話す。その上で「波が来る方角が違っていたら、防潮堤を大きく越えていたのでは」と分析する。
 熊谷分署長は昨年、普代中と軽米中の合同震災学習で案内役を務めた。村を守った太田名部防潮堤と普代水門を紹介したが、最終的に生徒に伝えたのは「防潮堤があるから大丈夫、ではない。高い場所に逃げなさい」という一点だった。
 村では昭和の大津波が起こった3月3日に合わせて毎年、津波記念塔の前で慰霊祭を行う。「津波は必ずまた来る」と住民は口をそろえる。犠牲を出さないことを「奇跡」でなく「必然」にするため、醸成された避難意識を次代にしっかりと受け継ぐことが鍵となる。
震災では1人の犠牲者も出なかった普代村の太田名部地区(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年3月11日】 太田名部地区に押し寄せた津波。防潮堤は越えなかった(普代村提供)

2019年11月21日 公開
[2019年04月18日 岩手日報掲載]

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普代村・太田名部地区の津波記念塔

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