生活奪った災禍伝え

釜石市松原町


 海岸から約1キロ離れた甲子川沿い。山あいにある釜石市松原町の共同墓地に、1896(明治29)年の三陸地震津波で犠牲になった59人を追悼する石碑「嘯(しょう)没者追弔塔」が立っている。長く地域を見守ってきた。
 釜石市誌などによると午後8時ごろ強い地震があり、海岸から約40メートルも海水が引いた。遠くでごう音がした後に津波が襲来し、4回繰り返し押し寄せた。水が引いた後には大型帆船も横たわった。
 当時の釜石町(現釜石市)では20分ほどで最大高さ約8メートルの津波が1105戸中898戸を押し流した。6529人いた町民のうち4041人が死亡。至る所に犠牲者が倒れ、漁船も248隻が流失。生活を根こそぎ奪う災害だった。
 共同墓地と周辺には、海難事故犠牲者のみ霊を鎮める「船流れ供養塔」や、2002年に同地区で発生した土砂崩れの犠牲者を悼む慰霊碑もあり、住民と自然災害の長い闘いの歴史を物語っている。

反省を基に備え強化

震災で8メートルを超える津波に襲われた釜石市松原町。山手は難を逃れたが、海に近いエリアは被災した(岩手日報社小型無人機で撮影)
 明治三陸津波の教訓を伝える釜石市松原町の嘯(しょう)没者追弔塔のそばに、東日本大震災の犠牲者を弔うため松原町内会(八幡徹也会長、87世帯)が2016年に建立した慰霊之碑がある。住民は盆と彼岸のほか、毎年3月11日ごろに花を供え、悲劇を繰り返さないと誓っている。
 震災前の同町内会は約230世帯あった。周辺は山がちで建物も多いため海岸線が見えず、海が近いと意識する人は少なかった。嘯没者追弔塔はほとんど意識されておらず、八幡会長(67)は「せっかく先人が伝えてくれた教えを生かせなかった」と悔やむ。
 東日本大震災では住民22人が犠牲になったほか、避難する車で渋滞した国道283号を津波が襲い、大勢が亡くなった。
 防災会を兼ねる同町内会が主体となり、助かった約400人を松原地区コミュニティ消防センターや津波を免れた住民の家などに振り分け、当面の寝床を確保。持ち寄った米や沢水で当日から炊き出しを行い、避難生活を支えた。
 反省を胸に15年ごろ、委員会を立ち上げて石碑の建立を進めた。傍らに刻んだ「鎮魂のいのりは永遠に波濤(はとう)を超えて」の文言を考えた柴田渥事務局長(72)は「亡くなった方々への思いの深さと災害を乗り越えていく決意を込めた」と振り返る。
 1月には同町内会の60周年を記念し、津波が襲来した海抜8・7メートル地点に看板を立て、より具体的に震災の被害をイメージできるようにした。住民も震災後、毎年行う避難訓練に非常持ち出し袋を抱えてくるなど、一層真剣に防災に取り組んでいる。
 八幡会長は「災害が起きたら必ず一緒に立ち向かうことになる。新しくできた災害公営住宅の人たちも含めて町内で結束していきたい」と力を込める。
「この高台から松原町の復興を見守ってほしい」と願う松原町内会の八幡徹也会長(右)ら
【2011年3月13日】 がれきに覆われた釜石市松原町

2019年10月21日 公開
[2019年03月12日 岩手日報掲載]

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釜石市松原町の嘯(しょう)没者追弔塔

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