昭和と平成 思い残す

野田村米田・南浜地区


 美しい海岸線を描く砂浜を多くの人が愛した野田村野田の十府ケ浦(とふがうら)海岸。東日本大震災後、海岸を望む米田(まいた)・南浜地区の高台団地近くに整備された「ほたてんぼうだい」に、1933(昭和8)年の「津浪(つなみ)記念碑」がある。
 碑はもともと、数十メートル離れた海沿いの綿津海(わだつみ)神社境内にあり、34年8月に建立された。震災の大津波で倒され、現在地に移設。流失住家58棟、死者8人、生存者319人…。昭和三陸大津波の被害状況が刻まれている。
 同村は過去に幾多の津波に襲われた。野田村誌によると、1896(明治29)年の明治三陸大津波では人口2590人中261人が亡くなり、流失家屋は411戸中138戸。村内には供養塔が残る。これに対し、昭和の津波記念碑は後世に津波到達地点と教訓を残そうと建てられた。
 昭和の大津波当時、十府ケ浦海岸は煮干し作りや製塩、木炭の積み出しなどでにぎわい、船宿や倉庫が立ち並んでいた。だが、無情にも津波が奪い去った。
 当時4歳だった久慈竹蔵さん(90)=同村野田=は「番屋は全て建て直さなければいけなくなった。それから防潮林が整備された」と記憶を呼び起こす。
 時は流れ2011年3月11日。平成の大津波は防潮林のほぼ全てをなぎ倒し、まちを襲った。

風化防ぐ学びの場に

東日本大震災を受けて建立された大津波記念碑。「二度と村民の命を失わないように」との思いが詰まっている
 野田村野田の「ほたてんぼうだい」には、もう一つ石碑がある。昭和三陸大津波の経験則を超えて襲ってきた、東日本大震災の大津波記念碑だ。村歴史の会や村などでつくった建立実行委が計画し、震災から丸7年に当たる2018年3月11日に完成させた。
 石碑の高さは震災の日付に合わせ、3・11メートル。表面に▽地震があったら津波を考える▽津波のときは高台に避難する▽避難したら絶対に戻らない▽避難場所や方法は家族や近所で相談しておく▽避難するときは隣近所に声掛けをする—と五つの教訓を記した。
 上部には「二度と村民の命を失わないように」と刻んだ。惨劇を繰り返さぬという強い決意がにじむ。
 村内ではあの日、37人の尊い命が奪われた。村民は28人。村の最高遡上(そじょう)高37・8メートルの津波が襲った米田・南浜地区では、9人が犠牲になった。
 自らも被災し、建立実行委員長を務めた広内洋治さん(70)=同村野田=は、過去の教訓と命を守る行動が十分に伝承されず、犠牲者が出たことが悔やんでも悔やみきれない。
 広内さんの先祖は明治三陸大津波で被災した。一家のうち当時13歳だった曽祖母だけが生き残った。曽祖母から津波の教訓を何度も聞かされて育ったが、震災時は「津波に対する記憶がかなり風化していた」と振り返る。
 石碑が発するメッセージを、いかに後世へ伝えるか。村では防災教育と合わせた取り組みが進む。
 大津波記念碑は、村の園児が協力して、震災当時の世帯数と同じ1674個の小石を基礎部分に埋め込んだ。震災ガイドのコースにもなり、地元児童のタブレット端末を使った防災学習にも活用。記念碑近くの地中には3018年に開封するタイムカプセルもある。 「過去の教訓を生かし、命を守る行動を」。惨禍の記憶を失わないよう、石碑が語り掛けている。
十府ケ浦海岸に面する米田・南浜地区。被災者の高台移転が完了し、昭和と平成の津波記念碑が立っている(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年5月】 津波が押し寄せ、多くの住家や防潮林が流された米田・南浜地区

2019年10月01日 公開
[2019年01月22日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

野田村米田・南浜地区の津浪記念碑

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