内陸の女性 祈る鎮魂

大船渡・猪川地区


 大船渡市猪川町の山手に位置する長谷(ちょうこく)寺前に高さ2メートルを超える津波犠牲者供養碑「萬人霊塔」が立つ。
 萬人霊塔は1896(明治29)年の津波後、旧猪川村の女性4人が施主となり建立。当初は盛川沿いの下権現堂(猪川村内塚部落)に建立されたが、道路改良などを経て同寺近くに移った。当時、気仙郡長だった板垣政徳の達筆な揮毫(きごう)が目に訴える。
 内陸部に位置する猪川地区。旧大船渡市域における明治の津波被害を市史でひもとくと、大船渡や赤崎、末崎の各村で甚大な被害を伝えるが、猪川村の詳細な記述はなく被害は少なかったとみられる。
 実際、東日本大震災時の住家被害は全壊、大規模半壊が各1戸と他地域に比べて被害が小さかった。
 なぜ、猪川地区に供養碑が建立されたのか—。
 郷土史家の平山憲治さん(81)=大船渡町=は「明治の津波は一家全員が亡くなるなどして葬式を挙げられない人も多かった。4人の女性が『私たちも被災者のお役に立ちたい』と思い建立したのだろう」と説明。100年以上前に内陸からささげられた祈りに思いをはせる。

被災の差葛藤も結束

中央手前の長谷寺前にある萬人霊塔は、被災者に対する内陸部の思いを今に伝える(岩手日報社小型無人機から撮影)
 供養碑に揮毫された日付は「明治29年9月」と、津波が起きた旧暦の5月5日(現在の6月15日)からまだ日が浅い。巨石の運搬など苦労も絶えなかった当時、いち早く建立しようという人々の強い意志がうかがえる。
 被災を免れた人が大きな被害を受けた地域の人を思う姿は東日本大震災にも通じる。震災後、猪川町内各地には避難所が設けられ住民は炊き出しにも加わった。仮設住宅も建設され、現在は多くの被災者が移り住み災害公営住宅や新しい住宅で暮らす。
 同町の長谷堂地域公民館は2015年7月、長谷寺近くに建設された災害公営住宅長谷堂東団地の住民や自宅を再建し移り住んだ被災者を招いて歓迎会を境内で開いた。
 当時の公民館長田村敏夫さん(72)は「被災していない自分たちはつらい体験をしていない中で、被災者にどう言葉を掛ければいいか迷いもあった」と打ち明けるが、新たな仲間を迎えようという気持ちは揺るがなかった。今月20日には、4回目となる餅つき新年会を開き、住民同士の交流は深まっている。
 震災では国内外から支援の手が差し伸べられ、物心両面で被災者を支えた。供養碑は今も昔も変わらない人々のボランティア精神の結晶にも映る。
 明治の津波から110年となった06年、同寺では「大津波供養碑法要」が営まれた。集まった住民は碑に手を合わせ、津波犠牲者を悼んだ。
 同寺の田村長平責任総代長(81)は「供養碑建立の背景には地域の団結力もある。これからも節目を設けて犠牲者を供養しながら、子どもたちに津波を言い伝える場所にしたい」と先人の思いに応える伝承を誓う。
長谷寺境内で津波犠牲者を悼む萬人霊塔を建立した先人に思いをはせる(左から)同寺総代の鈴木貞夫さん、田村長平さん、平山憲治さん
【2011年3月】猪川地区よりやや下流に位置し津波で被災した赤崎町のさけ・ますふ化場(盛川漁協提供)

2019年08月30日 公開
[2019年01月21日 岩手日報掲載]

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大船渡市・猪川地区の萬人霊塔

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