津波、大火 復興へ願い

釜石市唐丹町・本郷地区


 釜石市南東部に位置する唐丹町の本郷地区には1896(明治29)年と1933(昭和8)年の大津波の記念碑が並んで立つ。2度の津波では集落のほぼすべての住家が流失。当時の惨状と復興に向かう住民の思いを後世に伝えている。
 同地区出身の新沼裕さん(81)=愛知県東海市=がまとめた記録集などによると、明治の大津波では同地区の165戸中164戸が流失。人口約800人のうち生存者は出漁中だったわずか80人ほどだった。
 復興を遂げつつあった13(大正2)年には大火が高台移転した集落を襲う。延焼により住家はほぼ焼失。この大火が集落が低地に戻るきっかけになったともされる。結果、昭和の大津波でも102戸中101戸が流失。人口の約半数となる300人が犠牲になった。
 明治の大津波の三十三回忌に当たる28(昭和3)年に、地元の有志らが津波襲来時の惨状を刻んだ「海嘯(かいしょう)遭難記念之碑」を建立。昭和の大津波後の34年に早期復興への願いを込めて建てられた「昭和八年津浪記念碑」とともに、2008年に現在の場所に並んで移設された。
 新沼さんは「内容を理解するのは難しいが、住民が津波について考えるきっかけになる」と価値を語る。
 2基の碑(いしぶみ)には東日本大震災の津波による碑文の一部の欠落や傷痕が残る。

児童生徒の思い形に

東日本大震災後に建てられた津波記憶石。小池直太郎会長は「住民の思いが詰まっている」と一つ一つの言葉の重みをかみしめる
 「まさかここまで来るとは思わなかった」
 本郷町内会の小池直太郎会長(71)は東日本大震災の地震発生後、津波が押し寄せる直前まで明治、昭和の津波記念碑の前で海を眺めていた。津波の発生は予想していたが、高さ11・8メートルの防潮堤が集落を守ってくれると思っていた。
 しかし経験したことのない地鳴りを感じ、さらに上へと走った。逃げる途中で振り向くと、防潮堤を越えた黒い波が渦を巻いて自宅のある低地の集落をのみ込んでいた。169戸中44戸が全壊し、外出先などで住民3人が犠牲になったが、地域内にいた住民は逃げて無事だった。
 同地区の千葉サヨ子さん(77)は昭和の大津波を経験した母の故ナホヘさんから津波の恐ろしさを言い聞かせられてきた。声を掛け合い避難する住民を見て「先代が伝えてきたからみんな逃げて助かった。語り継いでいく必要性を改めて感じた」と力を込める。
 2012年7月、明治、昭和の津波記念碑の横に東日本大震災の津波記憶石が5基建立された。「地震がきたらここよりずっと上へ逃げて」など地元の小中学生ら約90人のメッセージが刻まれ、その教訓を胸に、町内会では同年から独自の津波避難訓練を重ねている。
 同地区には昭和の大津波後、復興を願い植えられた桜並木がある。東日本大震災で桜並木の北側は被害がなく、10メートルほど下がった南側は壊滅的な被害を受けた。住民は桜が復興のシンボルになると考え、震災後新たな桜並木を作るための植樹活動を続けている。
 地区内は住宅再建が終わり、14・5メートルの防潮堤も完成間近だ。小池会長は「日頃から記念碑を見て津波の恐ろしさを再認識してきた。私たちも経験を次世代に継承していきたい」と見据える。震災の教訓と復興への願いは碑と桜とともに伝えつないでいく。
昭和の大津波後に高地移転した住宅は無事だったが、低地の新しい住宅地が被害を受けた釜石市唐丹町の本郷地区(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年3月】 低地にあった住宅地が壊滅的な被害を受けた本郷地区(小池直太郎さん提供)

2019年07月19日 公開
[2018年11月22日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

釜石市唐丹町・本郷地区の海嘯遭難記念之碑、昭和八年津浪記念碑

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