海の玄関口 惨状刻む

田野畑村羅賀・平井賀地区


田野畑村羅賀・平井賀地区
 
 田野畑村の海の玄関口として栄えた羅賀(らが)・平井賀(ひらいが)地区。1896(明治29)年、1933(昭和8)年の大津波に襲われ、その惨状を記録した二つの石碑が残されている。
 明治の大津波後に建立された「大海嘯(かいしょう)溺死者招魂碑」は北側の羅賀地区にあり、死者98人、流失19戸の被害があったことを刻む。郷土史家の文献をたどると津波を「沖で軍艦が大砲を撃っているような音と錯覚した」との記述もあり、多くの人が逃げ遅れたことをうかがわせる。
 昭和の大津波は、南側の平井賀地区に被害が集中。未明の発生で気温は氷点下、積雪の悪条件も重なった。地区内に建立された「昭和八年津波記念碑」は、村内の溺死者を「103人」と記し、うち平井賀地区では約60人の犠牲者が出たとされる。
 平井賀地区は当時、木炭の積み出し港として栄え、避難所となったのが高台にある本家旅館だった。おかみの畠山照子さん(92)は、津波から逃げ切った夫の故栄一さんの体験を今に伝える。「大勢の村民が命からがら逃げてきた。宿にあった毛布や衣服もすべて提供した」
 石碑が伝える津波。そこに教訓を語り継ぐ人々が加わり、3度目の危機から住民を救った。

語り部 津波防災支え

東日本大震災当時に避難したルートを案内する語り部の早野一弘さん(左)=田野畑村・平井賀地区
 「津波てんでんこを訴え続けた先輩の教えが生きた」。東日本大震災の津波で平井賀地区の自宅が全壊した早野一弘さん(71)は、田野畑村のNPO法人「体験村・たのはたネットワーク」の語り部として活動を続ける。
 14日は愛知県岡崎市の本多裕隆さん(62)、妻はすえさん(62)を案内。防潮堤建設が進む地区内を歩き、震災当時の避難行動を再現した。
 自宅より海側で様子を見ていた早野さんは津波の襲来で、坂道を駆け上った。自宅内を確認する余裕はなく「おっかあ、居たら逃げろ」と叫ぶことで精いっぱいだった。津波にさらわれる寸前、海抜19メートル地点にあったカーブミラーの鉄柱につかまり難を逃れた。
 平井賀地区の住民は、早野さんの家族を含め多くが高台に避難していた。津波てんでんこの実践は、教訓を語り続けてきた本家旅館の故畠山栄一さんの存在が大きい。
 栄一さんは村漁協の組合長を長く務め、震災の約2カ月前に88歳で亡くなった。地区の集まりや、地元の羅賀荘の宿泊者らに教訓を伝え、妻の照子さんは「昭和の津波の怖さを知ってほしいという思いが大きかった」としのぶ。
 羅賀・平井賀地区は震災の津波で99戸が全壊し、関連死を含む9人が犠牲となった。明治と昭和の石碑も倒れたが、羅賀自治会は羅賀ふれあい公園内に二つの石碑を移転再建。6月に除幕式を行った。震災の伝承・鎮魂碑も建立し「津波を甘くみないで より早く、より高い所へ逃げる事」と刻んだ。
 石碑と語り部。二つの思いが地域に根付き、津波防災を支えてきた。畠山拓雄会長(63)は「そろそろ来るぞと常に警鐘を鳴らしていた」と栄一さんの足跡をたたえ、「子どもたちが集まる公園となり、石碑にも目を向け、津波を意識付けてほしい」と願いを込める。
東日本大震災で集落の奥まで津波が押し寄せた羅賀地区(左)と平井賀地区(右)=岩手日報社小型無人機から撮影
【2011年3月】 住家が流失した羅賀地区。右奥に造成された「羅賀ふれあい公園」に石碑が移転再建された(いわて震災津波アーカイブ・田野畑村提供)

2019年07月11日 公開
[2018年11月21日 岩手日報掲載]

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田野畑村羅賀・平井賀地区の大海嘯溺死者招魂碑

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