安全と平穏 切に願う

大船渡市末崎町・泊里地区


 かつて住民の多くが漁業で生計を立てていた大船渡市末崎町の泊里(とまり)地区。海の恩恵を受けてきた半面、幾度となく津波に襲われてきた苦い歴史がある。
 特に被害が大きかった1896(明治29)年の大津波では、住民約470人のうち260人ほどが犠牲になったと、ごいし民俗誌は伝える。
 泊里漁港の北約250メートルにある麟祥寺(金哲道住職)には、過去の津波を伝える碑が並ぶ。その一つが、1611(慶長16)年から1933(昭和8)年までの津波犠牲者を悼む「津浪横死者慰霊塔」だ。
 末崎村だった35年建立され、同じ時期には明治と昭和の大津波の到達地点を示す標石も各所に建てられた。石碑と標石には、山本周太郎村長らによる安全で穏やかな暮らしへの願いが込められている。
 海での仕事を優先し、危険を承知でとどまる人もいたが、住民は徐々に周辺の高台などに転居した。「みんな(碑の)思いを受け継いで遠くに出たのでしょう」。金住職(59)は推し量る。
 寺の境内に続く石段下にたたずみ、津波の教訓を伝えてきたその碑は、東日本大震災で津波をかぶった。

先人が生きた証しに

泊里地区を襲った津波を振り返る熊谷芳弘さん(右)と妻美代子さん。宿泊者に津波の教訓を伝えている
 「津波はまた来ると、ずっと言われていた。でもこんなに大きいとは思いもしなかった」
 大船渡市末崎町の泊里地区は、東日本大震災で過去の経験則を超える巨大津波に襲われた。当時、地区公民館長だった同市末崎町の熊谷芳弘さん(72)はあの日を静かに振り返る。
 震災前、同地区には36戸あったが、被災を免れたのはわずか1戸。これに対し犠牲者は住民約120人のうち5人だった。
 「みんな津波が来ることは分かっていて、あの時もすぐに逃げたんだ」。命を落としたのは、自宅に1人でいるなどして逃げることができなかった高齢者がほとんどだった。
 震災後、熊谷さんが公民館長として相談に乗った被災者は、結果として安全な暮らしを求めて古里を離れた。自宅が全壊した自身も近くの高台に再建。末崎村だった頃、この一帯の中心地として多くの人が暮らした同地区から集落はなくなった。
 人けのなくなった旧住宅地を見つめ、熊谷さんは「いつまでもここに残っていては、いつまた同じことが起きるか分からない。将来を考えたら移転はいいことだった」と思う。
 現在は妻美代子さん(66)と、かつての自宅跡地で民宿「吉十郎屋」を営む。泊里とのつながりを持ち、復興支援に訪れる人たちの宿泊場所を提供したいとの思いで始めた。客に震災時の様子を話したり、資料や映像を見せることもある。実際の津波注意報の発令などで7回、客を高台に避難させたこともある。
 まち並みは消え、生活再建先として選んだ場所は人それぞれだが、一人一人が胸に抱く古里への強い愛着は変わらない。かつての住民、そして先人の生きた証しを「津浪横死者慰霊塔」が未来に伝え続ける。
集落が無くなり、防潮堤建設が進む泊里地区。写真中央付近の麟祥寺に「津浪横死者慰霊塔」の碑がある(岩手日報社小型無人機から撮影)
【2011年3月】 津波が押し寄せ、住家被害がほぼ全域に及んだ泊里地区(熊谷芳弘さん提供)

2019年07月01日 公開
[2018年11月20日 岩手日報掲載]

碑の場所を確認する

大船渡市末崎町・泊里地区の津浪横死者慰霊塔

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