四つの教えを簡潔に

陸前高田市広田町・田谷地区


 陸前高田市の広田小(鈴木敏彦校長、児童120人)近くの土手に、1896(明治29)年と1933(昭和8)年の大津波の戒めを刻んだ石碑がある。東日本大震災でも津波が目前まで押し寄せ、眼下の田谷地区の大半が被災した。
 旧広田尋常高等小がまとめた広田村郷土教育資料によると、明治の大津波は第1波は緩やかだったが、第2波が「波勢最も猛烈」だった。人畜の命を奪ったのはその後の5回の波で、51人が犠牲になった。
 チリ地震津波気仙地区調査委員会が61年にまとめた三陸津波誌一九六〇によると、昭和の大津波は「(田谷地区に隣接する)大野部落は地形低きも湾形広く津波の被害少なく」、田谷地区の犠牲は4人だった。波高は田谷海岸の東側の六ケ浦で3・5メートル。明治の大津波は9・0メートルだった。
 広田小下の石碑は34(昭和9)年に設置され、簡潔な言葉で四つの教えを伝える。近隣の鈴木敏夫さん(84)は「2度の大津波を受け『ここまで来れば大丈夫』という目印に建てたと聞く」と、地区を守ろうとした先人を思う。
 通学路にあり旧広田村役場にも近かったため、田谷地区隣の大野地区の村上力さん(74)は「石碑の存在は皆知っている。文言も子どもの頃から覚えていた」と存在の大きさを語る。

地域一体で防災、避難

広田小の児童は今も大半がスクールバスで通学。「お願いします」と大きな声であいさつしてバスに乗り込む
 広田小の児童は東日本大震災後、古里の歴史や魅力と復興・防災を一体的に学んでいる。本年度は学校近くの大野海岸の現状を学んで海浜植物を植えたり、中沢浜貝塚歴史防災公園を見学するなど、学年ごとに多彩な活動を行っている。
 7月には同海岸の8年ぶりの海開きを前に、地域住民と一緒に清掃。同校の高橋浩教務主任(54)は「今後は清掃に合わせ、地域住民と一緒に避難訓練ができたら良いと思う」と、海での遊びを楽しむための安全確保を重視する。
 同校は震災でも被災を免れたが、2015年に広田保育園がより高台に移転したため、避難場所を保育園駐車場に変更した。通学で浸水域を通らざるを得ないため震災後に運行したスクールバスは、工事車両が多く危険なため今も走っている。
 震災の津波は石碑下の道路まで押し寄せた。田谷海岸と丘を挟んで隣接する大野海岸は防潮堤が低かったため、波は大野海岸側から坂を駆け上ってきたが、石碑の直前で止まった。波が引いた後、道路には大量のがれきが残った。
 地域の公共施設も被災した。広田中に避難した多くの住民と同校生徒は、波が防潮堤を越えるのを見て隣接する旧高田高広田校舎の校庭へ手を取り合って上がり、難を逃れた。広田地区コミュニティセンター事務局によると、田谷地区では92戸が全半壊した。
 住民は集団移転などの地域づくりを話し合う田谷地区集団移転協議会を11年に設立。避難完了までの所要時間を示す「逃げ地図」を作成し、非常時の電源確保のため風車を導入した。
 17年には総務省消防庁の防災まちづくり大賞を受賞。同協議会の佐藤武会長(75)は「石碑が伝える教訓は大切だが、実際どう逃げるのかを理解し、体で覚えることが重要だ」と語る。
広田小(中央)の奥に広がる田谷地区は、東日本大震災の津波で大半が被災した=岩手日報社小型無人機で撮影
【2011年3月】 田谷海岸は防潮堤が全壊。津波は集落の奥深くまで押し寄せた(鈴木敏夫さん提供)

2019年06月21日 公開
[2018年11月19日 岩手日報掲載]

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陸前高田市広田町・田谷地区の津浪記念碑

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