2度の災禍 証言集も

宮古市崎山・女遊戸集落


 三方を山に囲まれた宮古市崎山の女遊戸(おなつぺ)集落は、1896(明治29)年の大津波と1961(昭和36)年の三陸フェーン大火で壊滅的な被害を受けた。
 明治の大津波の海嘯(かいしょう)記念碑には同集落の全21戸中19戸が流失し、住民63人が犠牲になったと刻まれている。記念碑の隣には地蔵や念仏供養碑も並び、毎月住民が集って先祖を供養してきた。
 しかし、時間の経過とともに碑の存在感は薄れ、東日本大震災の発生当時、碑に刻まれた内容まで理解していた住民はわずかだったとみられる。同集落の前川節子さん(70)は「震災の津波が来てから、改めて意識するようになった」と語る。
 一方、集落が焼け野原と化した三陸フェーン大火については、91年に地元自治会が100人近い住民の記憶を伝える書籍「三陸フェン大火 あの悪夢から三十年」をまとめ、各世帯に配った。同書によると、集落内の住家全34戸が燃え、被災者は226人、被災額は推定1億円に上った。
 集落内に立つ三陸フェーン大火記念碑には「地を駆けるように、忽(たちま)ちにこの部落を一瞬のうちに全戸焼失、野も山も、全く燒土(しょうど)と化した」と刻まれる。 当時の小学2年生がつづった作文には「ぼくは、とてもさびしかった。そして、火事がゆめだとおもった」などと思いがつづられており、住民一人一人の生の声が当時の災害の記憶をつないでいる。

近所で声掛け命救う

再建された地区集会所前の広場で駆けっこをして遊ぶ女遊戸集落の子どもら
 海側の山に津波がぶつかった瞬間、「ドーンッ」という爆音が山間部に鳴り響き、やがて建物をのみ込む「バリバリバリ」という音が迫ってきた—。
 女遊戸集落の住民らによる東日本大震災の証言をまとめると、こうした状況が浮かび上がる。その一人、前川寿(ひさし)さん(70)が集落内の被害をまとめた資料によると、38世帯中22世帯が津波で流失したが、全員が高台に避難して犠牲者はなかった。
 山に囲まれた地形から、三陸フェーン大火の際は火に包囲された同集落。しかし、家々のすぐ近くに山がある環境は高台避難を容易にした。
 前川さんは「津波が来たら裏山に逃げることを、当たり前のように父から教わってきた」と語る。地震が起きると山に逃げ、そのまま夜を明かすこともあったという。
 普段から近所で声を掛け合い、住民のほとんどが知り合いという同集落。それは災害時に逃げ遅れた人がいても周りがすぐに気付く環境でもある。
 同集落の前川峰子さん(71)によると、震災直後、「本当に津波が来るのか」と言って、なかなか避難しない高齢男性もいたという。しかし、高台の貴船(きふね)神社に逃げた住民らが大声で「上がれ」「津波が来るぞ」と呼び掛けたことで、この男性も無事避難できた。
 震災の前日、同集落の集会所で崎山地区の区長らによる津波対策の会合が開かれたことも、住民の避難意識の高まりにつながったとみられる。
 震災から7年半余りが経過し、津波で倒壊した防潮堤や護岸はすでに復旧。再建された地区集会所前の広場では週末には、小学生や園児がキャッチボールやリレーで遊び、山あいに笑い声を響かせる。
 2度の大災害に見舞われながらも、たくましく暮らし続ける女遊戸集落の住民たち。避難の大切さを共に胸に刻み、住民同士の強い絆を脈々と受け継いでいる。
三方を山に囲まれ、東西に長い女遊戸集落。三陸フェーン大火では集落一帯が火に包まれた(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年4月29日】 震災で38世帯中22世帯が流失し、防潮堤や集会所も流された女遊戸集落(前川寿さん提供)

2019年05月21日 公開
[2018年10月24日 岩手日報掲載]

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宮古市崎山・女遊戸集落の海嘯(かいしょう)記念碑

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