「明治の惨禍」伝える

久慈市・湊町


 久慈市の久慈川河口に面した湊(みなと)町。避難所にもなっている高台の金刀比羅(こんぴら)神社入り口に、ひっそりと津波記念碑がたたずむ。
 湊町はかつて、周辺内陸部の源道や門前などとともに久慈町という地域だった。市総合防災ハザードマップと市史によると、同町は1896(明治29)年6月15日の津波で死者212人の被害を出したが、1933(昭和8)年3月3日の津波では1人。「明治」が満潮時だったのに対し、「昭和」は干潮時で被害が抑えられたとされる。
 「明治」の記憶は住民に脈々と伝わる。伊藤和歌さん(97)は「集落の3分の1ほどが亡くなった。一家全員が犠牲になった家もあった。経験した祖母から、すぐ逃げられるよう枕の下に足袋を置いて寝ろと教わり、昭和の津波の時はその足袋をはいて避難した」と記憶をたどる。
 記念碑が建てられたのは71年。当時市内には慰霊碑がなく、津波被災者を悼むため、事業家の故兼田忠二郎さんと兄の故忠吉さんらが個人で建立したという。
 忠吉さんの孫に当たる忠平さん(60)は「祖父は津波は怖いと口酸っぱく言っていた」と語る。おもむろに開いた過去帳には多くの祖先の名前と「明治29年死去」の文字が連なる。
 惨禍を後世に伝える—。先人が犠牲者を思い建てた碑は、高台の目印として今も住民を見守る。

神社へ避難 教え徹底

久慈湊小の津波防災訓練。「自分の命は自分で守る」意識を培う=2018年6月
 「津波が来たらこんぴらさまへ」。久慈市湊町に住む人々の鉄則だ。石碑のある金刀比羅神社周辺は東日本大震災時、黒山の人だかりとなった。住民は過去の教訓を無駄にするまいと、自発的に防災活動に励む。
 「地域で自分が一番避難が遅かったかもしれない」。震災時、海にほど近い自宅にいた村上雅夫さん(81)は振り返る。孫がランドセルを置いて友人たちと遊びに行った後、大地が大きく揺れた。津波が来ると直感したが、孫たちが心配で逃げる決心がつかず、もう無理だと道路へ飛び出した時には波が目の前に迫っていた。
 間一髪逃げ切り、神社へ向かうと孫たちは既に到着していた。「おじいちゃん遅いよ、だって。揺れたらこんぴらの方へ逃げるというのは、子どもでもちゃんと身に付いているんだなと思った」。湊町地区で震災の犠牲者は出なかった。
 孫が通った久慈湊保育園(岩山優子園長、園児64人)は年1回、久慈湊小(工藤靖夫校長、児童165人)は同2回の津波避難訓練を重ねる。同校は海抜2・83メートルの津波浸水想定区域にあり、震災後は保護者への引き渡し訓練も始めた。
 小室好司副校長(53)は「学校は普通、避難所になるが、うちは真っ先に離れなくてはならない。逃げることを体で覚えてほしい」と話す。
 自主防災活動も市内で最も盛ん。市と連携した研修会、町内会の合同訓練など積極的に展開する。下組町内会長の七十刈(しちじゅうがり)清明さん(61)は、各家庭に記入式の避難計画用紙を配布した。「避難路を自ら考えて書くことが大切。行政に任せきりにせず、自分で自分の命を守るため訓練を行う」と、てんでんこ意識の大切さを説く。
 悲劇を風化させないため。犠牲を出さないため。あまたの大津波を経験したまちは、碑に刻まれた先人の願い通り、世代を超え教訓を伝え続ける。
久慈川河口をさかのぼって津波が押し寄せた久慈市湊町。山中の金刀比羅神社(画面左下)に津波記念碑がある(岩手日報社小型無人機で撮影)
【2011年3月12日】 久慈市湊町の防潮堤に近い住宅街。押し寄せた津波で大きな被害を受けた(市提供)

2019年04月26日 公開
[2018年10月22日 岩手日報掲載]

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久慈市・湊町の津波記念碑

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