昨年5月にスタートし、今年の2月頭まで約10ヵ月におよぶ6年ぶりのアリスツアーを終えた谷村新司。バンド活動にいったん区切りをつけ再びソロ活動をスタートさせようとした矢先のコロナ禍で、ステージ活動はもちろんのこと、アルバムレコーディングもできない状況が続いたが、7月に入った所で集中したレコーディングが行われ、今月26日にニューアルバム『谷村文学選2020 -グレイス-』をリリースする運びとなった。コロナの影響で活動の変更を余儀なくされ、また大幅に制限され、アリス結成以来50年間培ってきたステージと楽曲制作のうち、ステージという翼をたたんだままでのソロとしての再離陸。今回のコロナ禍の中で彼自身が感じたこと、音楽家としての矜持を聞いた。

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■「文学選」というキーワードが谷村楽曲の新たな側面を浮かび上がらせ、
レコーディングは音を出せる喜びに溢れて…

 ニューアルバムのキーワードは「谷村文学選」。これまで、その詞世界の文学性には定評があった谷村だが、様々なアルバムを発表した中で「文学」という言葉を前面に打ち出すのは初めてのことだ。
「そうですね。これまでに発表した作品の中から選び直して新たに録音しようというのが、今回のアルバムで考えていたことでした。『文学選』というキーワードは何人かのスタッフからの発案だったので、昨年末ごろから、スタッフにも集まってもらって、これまで発表したソロアルバムをすべて聞き直したんです。このキーワードに沿ってあらためて聞いてみると、ヒット曲ではないけれど、それまでと違う魅力が浮かび上がってくる作品もあって、『少年の墓』とか『悲しみの器』とか『熱い吐息』とか…。とても楽しく新鮮な作業になりましたね。様々な活動の歴史の中で生まれた作品に今の僕の声で新しい命を吹き込むといったいどうなるのか、その点も含めてワクワクしてのスタートでした」

 アリスの活動も無事終わり、先行して発売する新曲「グレイス」「心花伝(こころかでん)」の制作も終わり、ソロとしてのステージ活動とともにアルバムのためのレコーディング作業を行おうとした矢先、まさに日本は緊急事態に突入することになった。
 「ソロでのステージ活動も春から始める予定でしたから、ミュージシャンにも集まってもらってリハーサルを続けていたんですが、すべてがストップしてしまった。4月、5月と過ぎていく中でスタッフたちは仕事がない状況が続いていくわけです。僕は何を彼らのためにやれば良いのか、みんなを元気にするにはどうすれば良いのか、考えた中で、まずは音を出し始めることだろうと、7月の頭くらいに厳重に感染対策をほどこしながらレコーディングを再開したんです。そうしたら音を出せる喜びがミュージシャンやスタッフの中に溢れて来るのがわかるんです。みんな音楽活動から遠ざけられていたから。緊張感の中にも喜びの溢れるレコーディングになりました。もちろん僕自身も本当に嬉しかった。音楽をやっていける喜びをあらためて感じる瞬間でした」

 今回のアルバムにはセレクトされた過去曲だけでなく、新曲2曲「グレイス」「心花伝」も収録される。驚くのは「グレイス」は昨年楽曲自体が完成していたにもかかわらず、まるで今のコロナ禍を予見したように、私たちの折れそうな心を応援する詞の世界が展開している。谷村新司の作家としての凄さをあらためて感じる作品だ。
 「新元号発表の時、“令和”という言葉が聞こえた瞬間に頭に浮かんだ言葉が“グレイス”なんです。“グレイス”という言葉を調べると天の恵み、神の恵みというニュアンスが強い言葉なんですね。食前にその日の感謝の祈りを捧げることを英語でSay Graceというんですが、それをキーワードにして作った歌です。当たり前のものというのは実は世の中には何もなくて、そこで生かされている私たち自身が奇跡そのものなんだ、生かされているのなら、何があってもすべてを覚悟をもって受け入れていこうという人生の応援歌なんですが、今あらためて、その詞を読んでいると、コロナに負けない心を持とうよという応援歌にもなっているように思います。一方の『心花伝』は、まさに武漢でコロナが発生した時に作り始めていた作品で、国は違っても、遠く離れていてもみんな同じ空を見上げているんだという歌で、僕が10年ほど前に中国でコンサートを行っていた時に色紙に良く書いていた言葉で“山川異域 風月同天(さんせんいいき ふうげつどうてん)※”という言葉があるんです。その言葉をベースにして書いた作品です。今は逢えなくても、歌は国境を越えていって人々の心に寄り添い、支えになってくれる事を願いたいと思います」


 谷村は今回のアルバム制作にあたり、ファンの人たちへのボイスメッセージ“今、逢えない貴方へ”も録音したという。それは自粛期間中に温かい応援の言葉をたくさん届けてくれたファンの人たちに、自分からも何かできないかと考えて、急きょアルバムレコーディングの終盤に録音し、限定特典のボイスCDとなった。
 「自粛期間中には本当にファンの方たちのメッセージに勇気づけられました。ファンのみなさんがまるで親のように心配してくれる(笑)。そういうファンの人たちに少しでも恩返しができればと思い立ち急きょ録音しました。ファンのみなさんはライブが生きがいだっておっしゃってくれる人がたくさんいて、でもその人たちにライブを届けることができない。もう少し我慢してもらわなければならないなら、歌と一緒に言葉も届けようと」

■僕は大阪育ち、何かあれば「しゃあないな」、「ほんでどうする?」で生きてきた。大事なのは正しく恐れながら前を向くこと

 それにしても、このコロナ禍のもたらしたネガティブな影響は計り知れない。音楽においてもそれは同様、たくさんの人たちが集い歌うことが封印されている中で、音楽は、そしてアーティストの活動はどうなっていくのだろうか。
 「コロナによって人々の価値観が変わる中で大事なのは、何が起きてもすべてを受け入れる覚悟だと思います。僕たちミュージシャンに対しては、音楽というものが人々にとって大切なものだと信じていられるかどうかを問いかけているように思います。まずは良い歌ありき、それを伝えるのが僕たちの役目。ビジネスとしても良い歌を伝えていくミュージックビジネスが残り、ビジネスミュージックは廃れていくんだと思います。コンサートに関しては必ず復活します。その時期はなかなか読めないですが、音楽が消え去ることは絶対にない。逆にこういう時期だからこそ音楽が絶対に必要なんです。これまでもそう信じて活動を続けてきましたし、これからもそう信じていくだろうと思います」

 谷村自身のコンサートは、まず9月に1本、そして11月に1本を予定しており、来年にはツアーに入る予定だ。コロナ禍の終息が見えない中で、多くのミュージシャンが試行錯誤を重ねながら、今の時代にあったステージを作り上げようとしている。谷村もそんな1人だ。現状を受け入れ、そこからどうしていくかに注目が集まる。
 「9月30日に大阪フェスティバルホールで、まずは1本やってみようと考えています。お客さんの数は半分で、動画配信にもチャレンジしながら。そこで、やれそうだと確信できたら次は来年のツアーですね。これは段階を踏んでいくしかないでしょう。
 昨日まで普通にできていたことが今日はまったくできなくなっている。でも、それを嘆いていても仕方ないじゃないですか。こういう天災的なことは必ず起きるんです。僕は大阪育ちなんで、こういう時に頭をよぎる言葉は『しゃあないな』、そして『ほんでどうする?』(笑)。
 前に向くことがすごく大事で、正しく恐れることは良いけれどむやみに恐れることはないと思います。僕たちはついついネガティブな情報に踊らされがちです。でも、それは心がウイルスにやられているんです。そういう心に効くワクチンが音楽なんです。人の心と音楽は切り離せないものなんです」

 約50年の活動歴をもつ彼のデビュー当初からのポジティブさはいささかもゆるがない。そういえば以前、谷村が北京で日中国交正常化30周年記念の大規模イベントのプロデューサーを任された時も、ランスルーにさえまともに来ない現地の大手放送局のスタッフにいらつくこともなく生放送ギリギリで入るのを何事もなかったように受け入れていたことを思い出した。「しゃあないな」は時代を超えて彼の中に息づいているのだ。

 最後に先輩ミュージシャンとして、活動が自由にできずに鬱屈しているであろう若手に対して言葉をかけるとしたらという質問をぶつけてみた。
 「いい歌を作って欲しい、歌って欲しい、覚悟を持って音楽をやって欲しい。これは若い人だけにということでなくすべてのミュージシャンにお話ししたいことです。大体ポピュラー音楽の世界には先輩後輩というのがないんです。新人のデビュー曲が素晴らしい傑作というのも良くある話ですし、逆にキャリアを積めば良い作品ができるわけでもない。だから若い人だけでなくすべてのミュージシャンが仲間でありライバルだと思っています。ただ長年やって来て気づいたことがあります。それは音楽には強い力があって、そんな力を信じることができるか、そして何のために音楽をやっているのかということを自分自身に問いかけてみる時期にしてもらいたいなと思います」

※「山川異域 風月同天」=今から約1300年前、日本の天武天皇の孫である長屋王(ながやのおおきみ)が遣唐使に託して中国に贈ったとされる1000着の袈裟(けさ)に縫い付けられていた漢詩とされる