昨今は着実に働き方改革が進む漫画家アシスタントの世界。だが、1970年代の変革期とされる少女漫画界においては、徹夜続きで風呂にも入れないような“シュラバ”が日夜、繰り広げられていたのだという。『ガラスの仮面』の美内すずえ氏ら、レジェンド級の漫画家の数々の傑作群が生まれる瞬間=シュラバの記憶を、自身もプロデビュー済みの漫画家として間近に体験した笹生那実氏が描き下ろしコミック化した『薔薇はシュラバで生まれる─70年代少女漫画アシスタント奮闘記─』。発売1ヵ月を経たずして4刷が決定するなど、話題を広げている。

【実録漫画】髪は乱れて目はうつろ…心血を注いだアシ生活の全貌

◆“瞳の中の星”を描ける楽しみ 今やすっかり廃れてしまった少女漫画ならではの技法

——『ガラスの仮面』美内すずえ先生、『天然コケッコー』くらもちふさこ先生、『菜の花畑のむこうとこちら』樹村みのり先生、『はみだしっ子』三原順先生、『日出処の天子』山岸凉子先生と、おもに扱われる先生方だけでも、完全にレジェンド級の方々ばかりです。

【笹生】最初から、5人の先生方のエピソードで構成しようと考えていました。プロットの段階でまず許可をいただき、ネームを起こしてまた確認してもらって、という段取りです。中にはやっぱり、描かないでほしいと言われたエピソードもあったのですが、私がぜひ描きたいと思っていたことが実現できて、ありがたく思っています。

——制作の上でのご苦労などは。

【笹生】しんどかったのは、目が弱っててねえ(苦笑)。それと、自分でもびっくりするくらい画力が落ちているんです。うまくデッサンが取れないし、何度やってもうまく描けなかったんですよね。しっかり描くためには、いろんな道具が必要だろうと、トレス台のいいやつを買ったり、眼鏡を作り直したり…そこからの作業でした。真っ黒になるまで下書きして、これなら自分で許せる、というレベルで納得できたらペン入れ。基本、昔ながらのアナログ環境ですが、枠線だけはデジタル。稀にそれを見抜く方もいます(笑)。なのでとても時間がかかって、結果的に企画が動き始めてから2年9ヵ月で仕上がったというのが実情です。

——登場する先生方が、それぞれの画風とキャラクターにそっくりなタッチで描かれています。

【笹生】絵を寄せていく作業は、大変でしたけど楽しかったです。とくに、今やすっかり廃れてしまった技法ですけど、目にホワイトできれいに星を描くといった作業は、たまらなく楽しいんですよ(笑)。絵については、自分の画力ではここまで、という判断はできますが、構成やセリフについては、もっと考えたいと思いながら修正を続けました。もうちょっと意味の通じる言葉にしなくちゃ、とか、ここまどろっこしいからもっとスッキリさせなきゃとか。もっと最適なコマ割りがあるんじゃないか、ここはより印象的な構図にしたいとか。そういう作業には終わりってないんですよね。自分で何度も読み直して、描き直して。ネームだけで丸1年かかりましたから(苦笑)。
 でも、そういうことをすべて、こんなに時間をかけず限られた時間内でできるのがプロの先生方。ネームも絵も、コンスタントにある程度のスピードで継続できる能力が、プロフェッショナルな商業作家としての重要な条件だと思います。

◆現役時代は「何を描けばいいかわからず迷走…」、作品の少なさに目を付けられアシに呼ばれる

——笹生先生ご自身は、32歳で商業漫画家をリタイアされたとのことですが、そのあたりも関係しているのでしょうか。

【笹生】そうですね…私自身は、2人目の子どものタイミングでこれは続けていくのは難しいなと判断しました。もちろん、2人、3人とお子さんがいても継続して仕事をしておられる漫画家さんはたくさんいます。当時の私には、それができなかったということです。20代の頃から、ネーム作りにとても時間がかかり、何を描いたらいいのかと迷走してしまって、現役時代も作品数は少なかったんですよ。で、作品数の少なさに目をつけられて(笑)アシに呼ばれた、という面もありました。

——作中では描かれていないのですが、当時のアシスタントの報酬は、どのようなものだったのですか。

【笹生】先生によってバラバラでしたよ。基本的には、一晩でいくら、みたいな感じ。山岸凉子先生はいっとき、時給で計算されていたのですが、誰それは仮眠が何時間だったのかとか、混沌としてしまって、やっぱり1晩いくら、に戻りましたね。私は実家暮らしだったこともあり、実はあまり報酬も気にしていなくて、覚えていないので描かなかったというのが近いです。
 でも当時でも、アパートで一人暮らしといったアシスタントさんはいましたし、そういう方はいろいろ計算しながら、自分の作品を描く時間を確保しつつ仕事をされていたのだと思います。私もそうでしたが、当時はデビューしたての新人や、デビュー目前の子が編集さんに紹介されて手伝うパターンが多かったので。

——そうなると、仕事としてアシスタントをする、というよりは、やはり先輩の作品作りをお手伝いする、という意識のほうが強かったのでしょうか。

【笹生】みんなマンガが大好きな人たちが集まって、ひとつのものに集中して、どんどん作品が生まれていく。みんなですごいものを作っている、その喜びは大きかったですね。今みたいにブラックという言葉もありませんし、労働条件云々とかどうでも良くて。でも当時から、特定の先生の専属アシでやっている方もいらしたので、そういう方々は仕事という感覚もあったでしょうけど。
 ただ、少年漫画に比べたら、シュラバの次元はやはり異なっていたのかもしれません。週刊連載は少なく、月刊や読み切りが多かったので、月に1週間とか10日とか集中してブラックな日々があって、そのあとはしばらく休めるという感覚です。メリハリはありましたけど、ただまあその集中がひどかったな、というね(苦笑)。世の中全体に、精神論というかスポ根的な空気が残っていた時代なんです。私も徹夜で自分の作品を描いていて、眠りそうになったら『アストロ球団』(72~76年『週刊少年ジャンプ』連載)を開いて、自らを奮い立たせたりしていました(笑)。その後、健康ブームが来て空気が変わりました。身体は大事にしなきゃな、って!

◆名作誕生の瞬間に立ち会える喜び それでも「修羅場を美化してはいけない」

——あのう、1週間お風呂に入れなかったといったエピソードは、実話なんですよね…?

【笹生】たまたま仕事が3日で終われば3日入らない、一週間なら一週間になるだけ。当時はそれが普通なので、気になりませんでした(笑)。ただ、圧倒的に女性が多かった少女漫画の現場でも、たまに男性もいるわけです。さすがに女性はそれぞれちゃんと着替えなどを用意していましたけど、よりによって男性が着替えを持ってきてなかったりして、別の意味の修羅感が出ちゃったり(笑)。でも着替えてもらうために帰宅する時間なんてありません。とにかく原稿が最優先で、そのためにみんな集まっているわけですから。

——お話を聞いていると、ちょっと文化祭の前夜的な、楽しそうな雰囲気も感じてしまうのですが…。

【笹生】いやいやあくまでシュラバはシュラバ、美化しちゃいけません(笑)。でも現場では確かに、悲壮感というのはあまりなかったかもしれませんね。よくこんなポーズ思いつくなあとか、こんな展開に?とか。すごい作品に触れているだけで、自分も引き上げられるという感覚もありました。こんなフワッとした指示でこんな立派な背景を描けた、という達成感も時々味わえたりしましたよ(笑)。

——素朴な疑問なのですが、そもそもスケジュール管理を徹底すれば、シュラバは発生しないのでは。

【笹生】言うは易しですよ。やはり基本的にみなさんギリギリまでネームを推敲して、そこに時間をかけるから、原稿作成そのものが遅れて、クオリティを確保するためにアシスタントが動員されるわけです。Twitterの投稿でびっくりしたのは「この時代の人はすごい、トーンも手で貼るのか」といったつぶやきがあったことです。当時は多種多様なトーンは存在しなくて、けっこうな面積を人力で、手で描いていたんですけど!と言いたいですね。そりゃ時間もかかりますし、シュラバにもなります。
 ですが、同じくTwitter投稿で、この漫画に登場する先生方の作品を読んだことがなく、ちょっと読んでみたくなった、という声がいくつもあって、それはとっても嬉しかった。すごい先生方ばかりですし、もしこの作品が簡易ブックガイドになっているとしたら、光栄だと心から思います。

——70年代は、雑誌も次々に創刊され、少女漫画の領域もどんどん拡大していった時代です。間近でご覧になって、どんなお気持ちだったのでしょうか。

【笹生】美内すずえ先生の圧倒的なパワーにも刺激をいただきましたし、樹村みのり先生、三原順先生、山岸凉子先生など、それまで当たり前だとされていた少女漫画の不文律みたいなものをどんどん打ち破って、素晴らしい作品を生み出されていく姿には、とても励まされました。本作で描きたかったエピソードはまだまだたくさんあったんですけど、これでも削りまくっているんです。
 くらもちふさこ先生の場合は、楽器などの資料も入手しづらい時代だったのに、楽器店のカタログなどから資料を用意して、少女漫画でもきちんと正確に描くんだ、といった努力を徹底されていました。70年代は、花の24年組と呼ばれる先生方が少女漫画の改革をした時代ですが、60年代に水野英子先生がされた改革も、忘れてはいけないことです。当然だと思っていることが、実はそうではないかもしれない。そう考えることが可能になるような、自由な視点を少女漫画の先生方からいただけた。それは、今も大きな財産だと思っています。
(文/及川望)

笹生那実(さそう・なみ)
1955年生まれ。73年『風に逢った日』で別冊マーガレット誌にてデビュー(笹尾なおこ名義)。その後、笹生那実、またはさそうなみとペンネームを変更し、数々の伝説的な少女漫画家のアシスタントを務めつつ、自身も漫画家として活躍。32歳で商業出版から引退。交流のあった漫画家・三原順作品の主要作品(『はみだしっ子』を除く)の絶版が続いていた97年頃より、復刊を求める一環として同人活動を本格スタート。三原順全作品の文庫化や画集刊行、原画展開催に繋がる。現在は「ひつじ座」名義でコミティアに、「三原順ファンPARTY」名義でコミケに参加。『薔薇はシュラバで生まれる─70年代少女漫画アシスタント奮闘記─』は32年ぶりの描き下ろし商業作品。