NHKで放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)。29日に放送された第37回では、主人公の金栗四三(中村勘九郎)や田畑政治(阿部サダヲ)よりも、誰よりも“東京オリンピック開催”を目指していた嘉納治五郎(役所広司)の最期が描かれた。

【写真】『いだてん』で嘉納治五郎役を演じた役所広司

 本作では、日本で初めてオリンピックに参加した男・金栗四三、日本にオリンピックを招致した男・田畑政治を主人公に、オリンピック初参加からの歴史を描いてきたが、アジアで最初のIOC委員となり、第5回ストックホルム大会へ、日本の初参加を決め、選手団長を務めた嘉納治五郎の後半生の“大河ドラマ”でもあった。

 1940年のオリンピックの開催地が東京に決まった翌年の1937年、日中戦争が
始まってしまう。日本では五輪反対論が沸き起こる。さらに戦争に突き進む日本は国際社会から孤立を深めていく。理想のオリンピックとは程遠い状況に田畑まで、治五郎に土下座して「返上」を訴えた。

 しかし、エジプト・カイロで開催されたIOC総会に出席した治五郎は、日本開催を危ぶむ声を封じ込め、改めて東京開催が承認された。しかし、カイロを出発した治五郎は、アメリカを経由、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗り、横浜に向けて帰国の途に就いたが、太平洋の真ん中で肺炎を起こしてしまい、1938年5月4日、帰らぬ人となる。享年77。

 治五郎の晩年について、同ドラマのスポーツ史考証を担当する真田久氏(筑波大学教授)は、「1938年3月のカイロでのIOC総会に出かけるとき、東京の返上やロンドンの突然の立候補(実際にはすぐに取り下げた)などの状況を聞かれた時、治五郎は『今からそんなことを心配したら頭が禿げる。いざとなれば柔道の奥の手を使うまでさ』とユーモアたっぷりに出かけました。最大の危機にあっても、逆らわずして勝つ、という姿勢だったのでしょう」と語る。

 治五郎の訃報を受け、IOC委員たちは追悼のメッセージを寄せたのだが、その内容から、いかに治五郎が尊敬されていたかがわかる。以下のとおり紹介する。

■ラトゥール伯爵(IOC会長)

 嘉納氏の逝去は単に日本にとって偉大なる損失たるに止まらず、全世界のスポーツ界にとってもまた同様である。氏は青年の真の教育者であった。我々は嘉納氏の想い出を永く座右の銘として忘れないであろう。あたかも兵士のごとく氏は自己の義務を遂行しつつ逝った。しかし氏はもっと永く生きて氏の生涯の夢であった東京オリンピックを見るべきであった。この東京オリンピックこそ、氏が日本のあらゆるスポーツを今日の高き標準に引き上げるため費やした永年の労苦に対する報酬であったであろう。日本の全スポーツマンに対し、我々の最も深き哀悼の意を伝えたい。

■カール・ディーム博士(ベルリン大会事務総長、スポーツ教育学の権威)

 氏とは1913年以来の親しい知友で全く感慨無量である。氏は世界で稀にみるスポーツ教育の総合的人格者で、氏の逝去は単に日本にとってばかりでなく、世界スポーツ界、教育界にとって痛惜に堪えない。

■アベリー・ブランデージ(IOC委員、米国オリンピック委員会会長)

 嘉納氏は立派な『サムライ』であり、典型的教育家であり、そのスポーツ界に対する貢献は長く追憶されるであろう。

■フランソア・ピエトリ(IOC委員、仏国オリンピック委員会会長)

 嘉納氏は永年の私の親友の一人である。氏はカイロ総会で非常な過労を強いられ、ほとんど独力でこの難関を克服していた。日本国民は氏の真摯(しんし)なしかも勇敢な努力に対して深く感謝しなければならない。

■クラレンス・ブルース(第3代アバーデア男爵、IOC 委員、英国オリンピック委員会)

 私はかかる素晴らしい人物に会った喜びを長く記憶から消し忘れないであろう。また、私はかつて氏が柔道の講義と実演をなした際、その道場において当時75、76歳であった氏が、わずか一分足らずの間に氏よりもずっと年若い人を投げ倒し、出席者一同をして氏の勇気と熟練とを賞賛せしめた事も忘れ得ない。私は嘉納氏の遺志に従い、日本におけるオリンピック競技会を支える事を最大の幸福と考えるものである。

■クリンゲベルグ(IOC技術顧問)

 今回の嘉納氏の最後の欧州訪問はオリンピック精神に合致したものだ。カイロ会議では非常な困難に直面したが、氏は巧みに、また自信を持ってこれを執り裁き、オリンピックの東京招致を確実にした。氏の残したもの、すなわち東京オリンピックを成功させることは氏を尊敬する者の義務である。