草なぎ剛は、すでに日本を代表する名優のひとり。だから、彼がいくらすばらしい演技を披露したとしても、それは特別驚くべきことではない。彼なら当然。そうつぶやくだけで充分である。

【写真】突き飛ばされて鼻血を流す“クズ”な草なぎ剛

 たとえば、彼の映画や舞台を観たことがない人がいるとする。ひょっとしたら、そのような人は、なんとなくのパプリックイメージ(そもそもパプリックイメージとは「なんとなく」のものである)で、「草なぎ=いいひと」という漠然とした印象のまま、俳優としての彼も捉えてしまっているかもしれない。

 だが、パブリックイメージなんぞをいくらなぞっても、才能の真価にたどり着くことはない。俳優・草なぎ剛のほんとうの実力を知るためには、まずは劇場に駆けつけるべきだ。ちょうど主演映画『台風家族』が公開されている。

■実に7年ぶりの主演映画『台風家族』で見せた進化

 もし、あなたが草なぎ剛に「おっとり」したイメージを抱いているとしたら、それは必ずや覆るだろう。なぜなら、俳優としての草なぎ剛はとてもソリッドだから。それは、もし「おっとり」とした性格の役を演じていたとしても変わらない。ソリッドに「おっとり」を構築している。

 草なぎの芝居は、精緻であると同時に本能的である。演技者としての彼は、俊敏で獰猛な獣に見えるときもあるし、生まれながらに磨き上げられた鋼鉄に思えるときもある。演技の軸が太く、しっかりしていて、何が来ようとも、どんなことが起きようともブレることはない。そして、「どっしり」と瞬発力が、当たり前に共存している。

 彼は人間の深遠を体現することができる。それは単に謎めいたキャラクターをものにできるということにはとどまらず、ごく普通の人間の奥底にある、本人も気づいていない「蠢く何か」をかたちにできる、ということだ。つまり、無意識を、明確に、あるときは劇的に、そして激烈に、表現する。だから、観る者に突き刺さる。

 人物の意識以上に、人物の無意識が、矢のように飛んでくる。それを避けることはできない。矢は容赦なく、わたしたちを突き刺す。だが、突き刺さっているのは無意識だから、わたしたちは途方に暮れる。感動のことをよく「胸を打つ」と表現するが、草なぎの芝居に接すると、「胸が貫かれる」のである。

 純然たる主演映画は久しぶりだ。
 近作『まく子』は主人公の父親役だったし、今回も共演している尾野真千子との「光へ、航る」はオムニバス『クソ野郎と美しき世界』の一編だった。その前の宮藤官九郎監督作『中学生円山』は名前こそトップクレジットだったが、実質はキーパーソン役であり、主演とは異なる位相を身にまとっていた。

 だから『台風家族』は、『任侠ヘルパー』以来、実に7年ぶりの主演映画と呼べるだろう。そして、この7年の月日は、主演俳優としての草なぎを明らかに進化させているように思える。

■主人公の無意識を丸裸にする添加物ゼロのアプローチ

 彼がここで演じているのは、銀行強盗で2000万円を強奪、その後、消息を絶った老夫婦の息子。ふたりの弟と、ひとりの妹がいる長男である。両親が行方不明になってから10年。子どもたち4人は、遺体も不在のまま、かたちだけの葬儀を行い、財産分与をすることになる。

 草なぎ演じる長男は、首にサポーターを巻いた状態で、妻と娘を伴い、実家に降り立つ。遺産は、ほぼ家と土地だけ。もろもろ計算すると800万円になる。4等分すると、ひとり200万だが、自分は長男だから、それ以上もらう権利があると主張。ここからすさまじい「大人のきょうだい喧嘩」が始まることになる。

 この長男はそもそも下のきょうだいたちから疎まれていた。そもそも自分勝手なのである。家業の葬儀屋を継がず、役者の道に向かうため、家を飛び出した過去があるにもかかわらず、自分は長男だから損しつづけてきたとの被害者気分がいつまで経っても抜けない。

 3人のきょうだいたちは、それぞれに個性的だが、そんな兄を「まあ、しょうがないな」とそれなりに受容してきたが、家族のそんな気持ちには無頓着で、とにかく自分の人生を最優先にしてしまいがちなのが長男の性格。この財産分与も、彼の都合によってスタートしている。

 きょうだいたちの怒りは、金をめぐる不公平についてのものではない。もちろん、それは引き金にはなっているが、それよりも、物心ついたときから、兄に抱いてきた違和感、それが長い年月によって降り積もり、ついに爆発したのだ。

 では草なぎはこの長男をどう演じているか。態度も言葉遣いも悪く、度量も小さく、思い込みが過ぎて、自己憐憫だけは肥大している。そんな男の肖像を草なぎは、たとえば「こんな男だけど、実はいいところもある」というような、呑気な余白つきでは表現していない。

 底の浅い男の底の浅さを、それ以上でもそれ以下でもない「正確な等身大」として、体現している。つまり、ことさら悪として見せているわけでもないし、かといって、安易な救いどころを用意しているわけではない。

 言ってみれば、小物を小物として、きちんと伝えている。そのことによって、観る側が、きょうだいたちのように「まあ、しょうがないな」と思うしかない領域に誘い込むのである。卑小な人間の薄っぺらさを、決して美化することなく「そのまま」提示してみせること。添加物ゼロのそのアプローチは、主人公の無意識を丸裸にするが、決して露悪的にはならない。

■2019年の草なぎ剛ならではの「環境づくり」に刮目すべき

 人は、とくに男は、自分を高く見積もりがちだが、草なぎはそんな彼の情けなさを直視させる。しかし、決して不快にはさせない。そして、そのことにとって、劇中のきょうだい同様、彼を「受容させる」のである。

 ここに、現在の俳優・草なぎ剛の成熟がある。本作にはドタバタコメディの側面もあり、活劇要素は満載。草なぎもスクリーンを所狭しとばかりに動き回るが、そうしたアクションで観客を圧倒することはない。むしろ、空回りしつづけるその姿を、虚飾なく「そのまま」体感させることで、この人間の本質を体感させる。

 人物の心理や内面に重きを置かず、できるだけ主観を取り除き、キャラクターを客体化する。そのことによって、わたしたちの感情を、主人公ではなく、きょうだいたちに移入させていく。誘導していくと言ってもいい。すなわち、この長男は、その点において、ちっとも主人公らしくはなく、むしろ、彼を見つめるきょうだいたちこそが主人公なのではないかと思わせる。

 もし、この人物が「憎めない」タイプだとすれば、それは草なぎがきょうだいたちの視点こそを感じさせるように、長男を演じているからだ。そのとき、わたしたちは気づくだろう。「憎めない」という感触は、ことフィクションにおいては、演じ手が構築して初めて成り立っているものだということを。

 近年の草なぎは舞台にも積極的である。クローズアップのない演劇は、演者の振る舞いがすべて客体化されていくメディアでもあるが、そこで得た成果を草なぎは映画にも持ち込んでいるのではないだろうか。

 主演ならざる主演。一風変わったホームドラマ『台風家族』は、2019年の草なぎ剛ならではの「環境づくり」に、まずは刮目すべきである。
(文/相田冬二)