演歌歌手の五木ひろし(71)が5日、都内で歌謡ショー『歌手生活五十五周年 感謝の響宴』を開催。公演前の囲み取材では「小さいころから歌が好きで歌手になりたいと思って昭和39年に上京した。コロムビア全国歌謡コンクールで優勝したことがプロ歌手としての第一歩となった」と語り「デビューしたものの、思うように行かない時代もありましたが、『五木ひろし』として1971年、4つ目の改名ですがそれが成功して昭和、平成という時代を多くの方に支えられながら歩いてきました」と改名が印象的だった歌手人生だったと振り返った。

【写真】高さ2.7メートル!自身の氷像と並んだ五木ひろし

 1965年に「松山まさる」としてコロムビアから「新宿駅から/信濃路の果て」でデビュー、その後、1967年4月に「一条英一」、1969年12月に「三谷謙」とヒット作に恵まれず改名してきた五木。山あり谷ありの人生が続いてきたが、転機となったのは、1970年によみうりテレビで放送されたオーディション番組『全日本歌謡選手権』だという。

 「プロ歌手としてデビューしたものの思うように行かない時代がありましたが、その中で『全日本歌謡選手権』という10週勝ち抜きの番組があり、最後にこれに賭けてみよう、落ちれば歌手をやめようという決意で挑んだことが結果的に勝ち抜いて“五木ひろし”となった。10週勝ち抜いたことが、私の人生において一番の大勝負だった。あれをなくして今の僕は勝たれません」と伝えた。

 また、“五木ひろし”になる前に歌手を「やめようと思ったことはなかった」と告白。理由は「苦労して育ててくれたおふくろへの思いが強かったので、なんとか成功して楽をさせたいという思いがあった。なので、止めるわけにはいかない、何がなんでも成功するんだという思いを持ち続けていたので、僕にとっては、おふくろの存在はとてつもなく大きなものでした」としみじみ。

 「五木ひろしとして成功した姿を見せられましたし、東京で一緒に暮らしてきた。少しは親孝行ができたのではないかと思います。他界して17年になりますが、きょうも天国から『おめでとう』と言ってくれていると思います」と笑顔を見せた。

 最後に歌手生活55年は「長くは感じませんでしたが、五木ひろしとなってからの49年間は、ひたすら走ってきた」と振り返り「23歳の五木ひろしが71歳を迎えているわけですから、そういう意味では早かった気がします。ただ、もう70歳を越えたと思うと、あとは年齢との戦いを含めて、今度は今の気持ちでどこまでやっていけるのかという勝負。改めて挑戦するこれからだと思います!」と意気込み。

 「一番大事なので常に目標を持つことや、常にチャレンジしていくことは、いくつになってきても続けてきた。その気持ちは変わることなくしてきたので、これからもチャレンジをしていく。その気持ちが一番大きいのではないでしょうか」とさらなる飛躍を誓った。

 この日の会場には横20メートル、高さ7.5メートルの五木の大型パネル、高さ2.7メートル、重量700キロの五木の氷像も展示。コンサートは司会を徳光和夫氏が登場し、森喜朗元首相、小泉純一郎元首相が祝辞の言葉を述べ、北島三郎が鏡開きの発声をするなど、五木の歌謡ショー前から場を盛り上げた。歌謡ショーは「初恋ながし」「おしどり」「夜明けのブルース」など全10曲を披露して、最後は横綱・白鵬らの三本締めで終え、観客約500人へ改めて感謝の言葉を伝えた。

■セットリスト
1:初恋ながし
2:よこはま・たそがれ
3:千曲川
4:おまえとふたり
5:長良川艶歌
6:おしどり
7:夜明けのブルース
8:山河
9:和み酒
10:麗しきボサノヴァ