興収250億円超えの空前の大ヒットとなった『君の名は。』に続く新海誠監督作品『天気の子』が公開中だ。『君の名は。』最大のトピックは、老若男女を問わぬ広い広い観客層に受け入れられたことだった。スタジオジブリ作品やディズニー作品をのぞけば、劇場用アニメーションがあれだけ幅広い層の人々に愛されるということは、我が国においてはほぼなかったと言っていい。

【写真】ヒロイン役の森七菜、本田翼など、『天気の子』声優キャスト

■ほぼ完成の域に到達していた作家性に固執しなかった

 もともと、新海誠のアニメは万人受けするものではなかった。ナイーヴで情感たっぷりの世界観が大好きな人もいれば、逆に「どうにも気恥ずかしい……」と敬遠する人もいた。それくらい趣味性の強い映画作家だったのである。

 とりわけ『ほしのこえ』から『秒速5センチメートル』までの初期作品。エモーションを拡大引き伸ばしにして、心模様をスローモーション化していく独自の情景創出は、乗れる人と、乗れない人を、はっきり分ける「少し変わった乗り物」だった。そんな新海アニメに大きな変化が生じたのは『星を追う子ども』だった。

 当時、一般観客向けの試写会の後におこなわれたティーチインで、監督のトークのお相手をつとめたことがある。新海は観客から、ジブリ作品との類似について問われたとき、「自分はジブリからも影響を受けている。それってダメですか?」というニュアンスのことをかなりカジュアルに語っていて、その潔さに驚いた。

『秒速5センチメートル』までの新海作品には唯一無二のオリジナリティがあった。だが、新海は、ほぼ完成の域に到達していたその作家性に固執せず、より広大な地平に挑もうとしていた。そのためには「ジブリ的なるもの」も援用してもいい。そんな覚悟に貫かれた発言に思えた。
(その少し前だったと思うが、細田守監督にインタビューした際、「劇場アニメは、ジブリ、ディズニーだけではない。それを自分の作品で示したい、という想いもあります」と語っていたことと対照的で、印象に残っている。もちろん、細田も、自分の作品をより多くの観客に届けたいという希望においては、新海と完全に一致しているわけだが)

■大きな視野とひたむきな野心が大成功につながった『君の名は。』

 つまり、新海には、たとえば「新海ワールド」と形容される世界観を継続・深化させるだけではない、大きな視野とひたむきな野心があった。そして、その実践が結実したのが『君の名は。』であった。

 ヒットの要因は様々な分析が可能だろう。だが、新海のキャリアについてだけ考えるなら、明快なドラマツルギーの導入があった。簡単に言えば「わかりやすさ」、もう少し突っ込んで表現すれば「大きな物語」でラッピングして、「少し変わった乗り物」を「誰でも乗りこなせる乗り物」に変化させた。

 だからこそ、年配の観客にも無理なく受け入れられたのである(タイトルで往年の名作日本映画を想起した方々も多かっただろうが、それだけではない作品的な「受け取りやすさ」がはっきりあった)。

 新海ならではの情緒はある。だが、かつてのようなエモーションの拡大引き伸ばしではなく、淡々と既存のドラマツルギーを踏襲してエモーションを構築していく真っ当さがあった。この真っ当さこそが、多くの観客を無理なく惹きつけた。ぶっちゃけた言い方をすれば、『君の名は。』はベタだった。だから愛された。

 だが、そのベタは、前述したように、覚悟を決めた上でのベタだった。『星を追う子ども』のときのような、ジブリ作品からの影響はもはや感じられない。より広大な人々に届ける語り口とは何か。それを徹底的に推し進めた結果、彼ならではのオリジナルなベタを完成させたのである。

■フォーマットそのものをベタな形状に完成させた

 新海誠的な要素よりも、フォーマットそのものをベタな形状に完成させることが、そこでは至上命題となっていたように思う。

 これはあくまでも私見だが、『君の名は。』は、ずっとインディーズで映画作りをしてきた少年が、試行錯誤の果て、ついにメジャーの地平にふさわしい「大人の振る舞い」を獲得した一作ではなかったか。
 唯一無二の作家性を単純に前進させるのではなく、「物語ること」に徹底的にこだわることで、従来の新海作品に充満していた、ある種の「気恥ずかしさ」が中和した。そう、ベタは、濃厚な情緒を和らげ、「乗りやすくする」潤滑剤たりていた。

 だから、新海誠という監督名をそれまで知らなかった人々にも『君の名は。』は、突き刺さった。そして、それは、この作家が望んでいたことでもあっただろう。

 だが、フォーマットの完成度に較べ、盤石なドラマツルギーを基調としたことで、観る者の気持ちがスローモーション化するような独自性は若干薄れた。いや、だからこそ、あれだけの動員となったわけだが。

■過去作品のいずれでもない最前線に躍り出た『天気の子』

 さて、『天気の子』はどうか。おそらく『君の名は。』で初めて新海のことを知り、観るのはこれが2作目となる若者も多いだろう。『君の名は。』を契機に新海の過去作をさかのぼっていった熟年層もいるかもしれない。いずれにせよ、『君の名は。』同様、本作が対象とする観客は老若男女。もはや新海誠という固有名詞は、それほどのネームバリューを有している。

『君の名は。』でゲットしたオーソドキシーを、より純化させる方法論もあったかもしれない。あるいは、初期作品に通ずるエモーションを、現在の彼の技量で立体化することだって充分可能だったはずだ。だが、新海は『天気の子』で、そのいずれでもない最前線に、飛び出した。まずは、その勇気を称賛したい。

 島から家出して東京にやって来た男子高校生が、小さな編集プロダクションに転がり込む。それと同時に、ファーストフード店で運命的な出逢いを果たした少女を、ある事態から「救出」したことから、恋が始まる。なんと、彼女は「100パーセントの晴れ女」である女の子だった。彼女の能力で、ささやかなビジネスをスタートさせるふたりの行方を、映画は追いかけていく。

 ドラマを機動させるキーアイテムも、そのことによって追われることになる逃亡劇も、少女の「秘密」も、すべてベタである。私たちがよく知っている物語の定型がある。つまり、この点に関しては『君の名は。』で到達したドラマツルギーの延長線上にある。

 だが、ベタな語りの片隅に「現代」に向き合おうとする確固たる意志がある。そこが、どこか郷愁の色あいの濃かったこれまでの新海アニメとは趣を異にする。その本気が、とりわけ前半には具体的な描写として、ぎっしり詰まっている。

■抽象ではなく、具象絵画として「清貧」をダイレクトに描き出した

 本作には、いくつものテーマがあるが「家出」はそのひとつだ。
 家出した少年が、ネットカフェで浴びるシャワーのささやかな安堵。少女がスナッキーなインスタント食品に手を加えて供する、心づくしの料理のぬくもり。そして、逃走の果て、ようやく駆け込むラブホテルの、まるでシェルターのような部屋のありよう。

「東京」という記号(本作では、新宿・歌舞伎町が大きな意味での舞台として選ばれている)を剥奪してしまえば、日本のどこにでもあるはずの日常に隣接した時間・空間が、丹念な物語の積み重ねによって、かけがえのないものとして輝く。

 これまでの新海アニメが、美しい瞬間を、最大限美しく切り取り、ブローアップしていたとすれば、ここでは、当たり前に存在していたものから光を生み出す「錬金術」が駆使されている。

 新海誠は「清貧」を描いてきた作家だと、わたしは考える。その「清貧」は、価値観であり、モチーフでもあるが、それゆえに美化され、抽象的に昇華され、それが新海誠ワールドの本質たりえていた。

 これまでは、人と人とのあいだに派生する「清貧」の精神を結晶化してきたように思うが、今回は、抽象ではなく、あくまでも具象絵画としての「清貧」をストレートに、ダイレクトに描き出した。いま、彼はそれを可能にする「筆力」を手にしているからだろう。

 たとえば、大量消費されるはずのハンバーガー1個が、永遠に記憶に残る。その個的な魂に、『天気の子』の「清貧」は宿っている。

■『君の名は。』とは対称的に観客に委ねられた解釈

 最終盤では、タイトルに象徴される天候(それは、これまでの新海作品でも象徴的なモチーフだった。だが、そのポジションも既に変わっている)と少女の関係がダイナミックに動き出す。だが、『君の名は。』とは対称的に、その解釈は観客に委ねられている。前作のような、わかりやすい「サービス」はほとんどない。

 おそらく、多くを語らないこの手法には賛否あるだろう。なぜなら、これは単純なベタではないからだ。だが、ここには「清貧」を「清貧」のままで見つめ抜く、しぶとくもしなやかなまなざしがある。『君の名は。』での達成が、これほどまでの視点の進化をもたらした。

 そして、この「清貧」のアングルからラストを捉えるなら、これまでになかったほど、愚直な余韻がやってくる。
 つまり、一周回ってのベタが、ここにはある。

「家出」とは、映画作家、新海誠自身の宣言=メッセージでもあるのではないか。ノスタルジックに転びそうな物語なのに、ノスタルジーの匂いがほとんどない。「家」を出て、「どこか」を目指す。見えない目的地に向かう情動こそが、『天気の子』最大の魅力である。振り返らない情動。新海誠は、ついに「家出」した。

『君の名は。』で「脱皮」した新海誠は、『天気の子』でいよいよ「成虫」となり、いままさに飛び立とうとしているかに思える。彼の羽が、どの方角に向けて、羽ばたくのかはまだわからない。だからこそ、期待も高まる。「家出少年」の真の冒険は、これからだ。
(文/相田冬二)