『ザ・ファブル』が絶好調だ。公開4週目で動員ランキング6位をキープし、累計動員100万人、興収15億円を突破。最終20億円超えに向けて夏休み興行に突入している。人気漫画を豪華出演陣で映画化することは、めずらしいことではない。むしろ、ありふれている。ではメガヒットの要因はどこにあるのか。主演、岡田准一のアプローチを軸に考えてみたい。

■やりすぎていない「居心地の良さ」とほどよい脱力感

 この映画は、飲食で言えば居酒屋感覚にあふれていると思う。居酒屋と言っても古き良き風情のそれではなく、21世紀仕様、今風の居酒屋の匂いがある。和食はもちろん、洋食もあればエスニックもある。料理の幅が広い。どのメニューをつまんでも、安定の美味さがある。酒だって、ビール、チューハイ、ハイボール、ワイン、マッコリなどなど、いい意味でカテゴリーにとらわれず、いずれも高水準。何を飲んでも大丈夫な感覚。そんな「居心地の良さ」があるのだ。

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 つまり、やりすぎていないのだ。
 一見、複数のジャンルを横断する、ボーダレスな印象がある映画だが、それぞれの要素がやりすぎていないから、疲れないで済む。ほら、よくあるでしょ。本格志向すぎて、あんまりくつろげない飲み屋が。そういう、ところが一切ない。

 キャラクターの味つけは濃いめ。木村文乃の豪快な飲みっぷりも、柳楽優弥の仔犬がきゃんきゃん吠えるような虚勢の張り方も、福士蒼汰の無邪気な殺し屋ムードもてらいがなく、躊躇なく振り切ってはいる。だが、それぞれがトッピングされたとき、まったく重苦しくならない。演技派たちがデフォルメされた演技に徹しているなか、佐藤二朗がいつもの風情で平然とニヤニヤしていても、なんの違和感もない。そうか、そうだよな、こういう世界観なんだよな、と理屈抜きで納得してしまうような、ほどよい脱力感がある。

■主人公が妙な「浮き方」をする、愛おしくもある違和感

 ところが、だ。そんな世界観のなかで、ひとりだけ「浮いている」のが岡田准一である。なんというか、テンションのあり方が違う。それが、主人公像によるものなのか、それとも俳優、岡田准一そのひとによるものなのか、判別がつかないあたりが、本作のオリジナリティなのではないか。と、とりあえず仮定してみたい。

 すご腕の殺し屋が「普通の生活」をする。そのミッションの行方を描く物語だが、幼少期から普通には生きてこなかった男が普通を手探るうちに、人情らしきものに出逢うというのが、メンタル的には大きな部分ではある。だが、シリアスなストーリーを、いい意味でガサツで、品のない笑いでラッピングしていく筆致が浮き彫りにするのは、主人公の「普通ではいられない」部分だ。

 岡田は、そんな主人公をクソ真面目な顔つきで演じており、この徹底ぶりが、可笑しくもあり、哀しくもあり、可愛くもあり、なんとも言えなくともあり、という「とりとめのなさ」に誘う。明快な脇キャラとは対照的に、主人公が妙な「浮き方」をしている。この、愛おしくもある違和感こそが、映画の緩急をかたちづくっている。

 物語的に「浮いている」のは当然のはずなのだが、その「浮き方」が独特のため、不思議な気分になる。料理で言えば、本来スパイスは味を引き立てるために用いるものなのに、スパイスそのものがメインディッシュになっているような、そんな感覚に陥る。で、それがすこぶる気持ちがいい。

■別の役割を果たす、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感

 主人公は、殺し屋であることを隠しているので、弱いフリをする場面があるのだが、そのフリが極まっているため、逆に異様なまでの戦闘能力が露呈するという反転が起きてもしまう。これも、岡田准一の芝居がそうなっているのか、そもそも主人公がそういう人間なのかが、わからなくなる。で、わからないことが爽快なのだ。

 そして、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感は、別の役割を果たしてもいる。前述した通り、本作には、シリアスな物語をコミカルに描くという基本路線があるのだが、観ていくうちに、悲劇と喜劇が混濁していく。無表情に徹する岡田=主人公の顔つきが、悲劇なのか喜劇なのかを「わからなくする」と言ってもいい。

 あったはずの境界線がどんどんどんどん抹消されていき、切なくなることと、笑ってしまうことが、同一線上に並ぶことになる。あえて乱暴な言い方をすれば、「どうでもよくなる」。これもまた、すこぶる快適だ。なにしろ、余計なことを考えなくて済む。あるときは悲しい、あるときはコメディ。それで全然オッケーじゃん、という大らかな気持ちにさせるのだ、岡田=主人公の顔は。

 岡田准一と言えばアクションに定評がある。今回も自らアクションをコーディネートしており、抜かりはない。だが、その活劇純度とはまったく別の次元で、彼はとんでもない仕掛けをしている。

■着くところまで行き着いた岡田准一の活劇魂

 なんと黒マスクを被ったまま、アクションを続けるのである。

 顔の部分だけを観ていたら、岡田かどうかの判別はつかない。だが、アクションや肉体を見つめていれば、それが岡田准一に他ならないという事態に、わたしたちは遭遇する。なんという、ねじれた提示だろう!
 活劇魂が行き着くところまで行き着くと、こうなるということか。顔なんて観るな!アクションだけを観ろ!そんな無言の叫びさえ聴こえてくる。真っ当すぎて異様。この迫力もまた、本作の独自性である。

 主人公が「浮くこと」。悲劇と喜劇の混じり合うこと。このふたつを、無表情の顔で成立させ、最終的には、それさえも隠すことで、「顔のない活劇」を繰り広げる。序破急の三段階。

 岡田准一のおそるべき進化形態によって、非凡な映画は、見事に「誰もが楽しめる」エンタテインメントに昇華しているのである。
(文/相田冬二)