豊臣秀吉から関白職を継承しながら、秀吉の不興を買い失脚、切腹したとされる養子の秀次について、死の約3カ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が、29日までに見つかった。

 秀吉は側室淀君との間に実子秀頼が誕生したことで、関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容で、書状を精査した東京大史料編纂所の村井祐樹准教授は「秀次の切腹に至る経緯の解明につながる貴重な発見だ」と話している。

 史料は同編纂所が保管していた文書群から見つかった。秀吉の側近が毛利輝元に宛てた1595年の書状とみられる。