2022.03.28

写真が語る「釜石の出来事」 宮城の高村さん撮影、本紙に提供

「写真が伝える教訓を伝え続けてほしい」と語る高村幸男さん=宮城県角田市
「写真が伝える教訓を伝え続けてほしい」と語る高村幸男さん=宮城県角田市

 東日本大震災発生直後の釜石市鵜住居(うのすまい)町で、避難する児童生徒らを撮影した宮城県角田(かくだ)市の高村幸男さん(81)は、震災から11年を機に未公開だった写真を岩手日報社に提供し、当時を振り返った。「釜石の出来事」と呼ばれた子どもたちの迅速な避難のほか、渋滞を防ぎ子どもを優先して避難させた住民らの行動など、多くの要素が重なって間一髪生き延びた状況が浮き彫りとなった。一方で子どもを含む大勢の犠牲者を忘れず「写真が伝える教訓を生かしてほしい」と願い続ける。

 当時鵜住居町に住んでいた高村さんが撮影した写真は、地震直後から高台へ逃げるまでの16枚。散乱した自宅室内に続き、避難する鵜住居小と釜石東中の児童生徒の様子などを記録した。代表的な一枚を「震災を伝えてほしい」と釜石市に10年ほど前に提供したが、その他はほとんど公開されていなかった。

 震災直後、国道45号から両校へ続く道は、子どもを迎えに行こうとする保護者らの車で大渋滞した。高村さんは「これ以上渋滞したら逃げ道がなくなる」と考え、自宅前の交差点で「津波が来る。戻れ」とUターンを呼び掛けた。渋滞で動けなくなった車を路肩に寄せるよう促す人もいた。

 教員の先導で中学生が小学生の手を引き、広く空いた道を歩いて避難してきた子どもたちが、住民らに促されて走りだす様子も写っている。

 当時釜石東中2年で、現在は同市の「8kurasu(クラス)」で防災教育の推進などに取り組む菊池のどかさん(26)は「住民の皆さんが『先に行け』『速く』と促し、子どもの避難を優先してくれた。私たちは率先避難者とたたえられたが、みんなに『率先避難者にさせてもらった』のだと思う」と感謝する。

 子どもたちの避難を見届けた直後、土煙とともに津波が襲来。高村さんは膝まで津波に漬かりながら山へ駆け上がった。「数分遅かったら大人も子どももみんな流されていた。本当にぎりぎりだった」と振り返る。

 自宅は被災し、しばらく近くの鶏小屋などで暮らした。近くにはシートにくるまれた遺体が並べて置かれ、自らも生け垣の中で「まるで人形のような」女性の遺体を見つけた。「大勢を逃がしたが、大勢が亡くなった」と目を伏せる。

 その後同市栗林町の仮設住宅で暮らしながらがれき撤去などに従事し、2015年に息子がいる角田市へ移住。今はほぼ毎日近くの山に登り、頂きにある太平洋を見下ろす慰霊の鐘を訪れて犠牲者を悼んでいる。「11年前、いろいろなことが絡まり合って、いい結果にも悪い結果にもつながった。命を守るのは難しいことだと、写真を通じて伝え続けてほしい」と願う。

釜石の出来事とは

 東日本大震災で釜石市の鵜住居小と釜石東中の児童生徒ら約600人が約1・6キロ先の高台へ避難し、多くが助かった。震災前からの防災教育の成果として注目された一方、休みや早退で学校にいなかった児童生徒2人と、避難途中で保護者に引き渡された児童1人、最後まで学校に残った事務職員1人が津波の犠牲になった。

大地震の後、子どもを迎えに行く保護者らの車で混雑し始めた道
住民らが車を路肩に寄せるよう促し、広く空いた道を歩いて避難してくる鵜住居小と釜石東中の児童生徒
「先に行け」「急げ」と住民に促され、走りだす子どもたち(釜石市に提供した1枚)
高台へ避難していく子どもたち。大人も後を追うように避難した
子どもたちが避難した直後、遠くで土煙が上がり津波が押し寄せ始める
膝まで津波に漬かりながら高台に駆け上がり、振り返って撮影した1枚=写真は全て2011年3月11日、釜石市鵜住居町(高村幸男さん提供)