2022.01.27

不安が的中、悩み深く

一人では歩けない萌羽さんの腕を抱え、歩行を支える沢田佳代子さん(右)=盛岡市内
一人では歩けない萌羽さんの腕を抱え、歩行を支える沢田佳代子さん(右)=盛岡市内

脊髄小脳変性症

沢田 萌羽さわた・もえはさん(15) 母佳代子かよこさん(39)=盛岡市

 

①娘への診断

 沢田佳代子さん(39)の長女萌羽(もえは)さん(15)は矢巾町の盛岡となん支援学校高等部の1年生。国の指定難病で、小児慢性特定疾病にも指定される脊髄小脳変性症を患う。自力で立ち上がったり、歩くことはできない。

 沢田さんが萌羽さんを授かったのは23歳の時。体重3800グラムの健康体だった。2歳半の頃、保育士に異変を告げられた。「なんだか、ふらつきが気になります」。沢田さんは全く気づいていなかった。

 当時盛岡市にあった県立療育センターへの通院を始めても、はっきりしたことはなかなか分からなかった。初めて明確な診断を受けたのは市内の小学校に入学して数カ月後。「高機能広汎性発達障害」と聞かされた。「かんしゃくが強く、家を飛び出すような奇行もあった。そういうことも踏まえた診断だったと思います」

 2年生になると知的障害が分かった。歩行は着実に大変になってきていた。3年生は特別支援学級に通わせた。

 3年生の夏、脊髄小脳変性症が疑われた。岩手医大の検査で小脳の萎縮があり、予想される病気の一つだった。

 小脳の異常を指摘されたことは以前もあった。ネットで「小脳失調」と検索し、同変性症を知った。沢田さんは当時、思った。「いい話は一つも書いていない。この病気でなければいいな」と。

 岩手医大の後、セカンドオピニオンを求めて国立精神・神経医療研究センター病院(東京都)も受診した。

 遺伝子検査の末、同変性症の診断が確定した。「ショックでした。過呼吸になったり、誰もいない所で泣いていました」。病気の原因は分からなかった。

 沢田さんは21歳で長男の悠羽(ゆうわ)さん(18)を出産。2年余して萌羽さんが生まれた。正社員として働いた期間は短く、仕事を何度も変えた。2度の離婚を経験し、引っ越しも多かった。

 家計は苦しかった。「扶養手当と児童手当を入れて月収は15万円ぐらい。そこから家賃や食費、光熱費、学校関係、学童の月謝などを払う。手元にお金がないとカードを使うから、その支払いも加わった」

 自分を責め、子どもに当たった。「なんでこんなにうまくいかないことが多いんだろうと。うまくやりたいのにできないと悩んだ。いつも子どもを叱っていた気がします」。怒りを制御するアンガーマネジメントなどを調べ、自分を見失わないように努めた。

 助けられたのは民生委員との出会いだった。勤務先のスーパーの同僚女性。生活保護(生保)の受給を勧められた。仕事をし、車も持つ人間が生保の対象になるとは考えてもいなかった。

 萌羽さんが小学3年の終わり、生保の受給が認められた。心に余裕が生まれた。「いろいろなことが考えられるようになった」

 萌羽さんを自宅で一人にしておけるのは30分程度。「トイレの問題があるし、食べ物を喉に引っかけるのも心配」。沢田さんは今、1日の勤務時間を3時間に抑えている。体は丈夫な方。ジレンマはある。「できればきちんと働いて、税金を納める生活をしたい。でも現実はなかなか厳しい」と吐露する。

 萌羽さんの4年生への進級を機に、となん支援に転校させた。「けがが心配だし、勉強も厳しそうだった。人手が足りず、学校が困っている様子も分かった。萌羽にとってより良い環境を考えて決めました」

 2人の子どもと暮らす市営アパート。居間で沢田さんはいつも萌羽さんと並んで座る。萌羽さんは病気のため体が揺れる。少し複雑な話は理解が難しい。お金などの計算も苦手だが、時間をかけて指を使ったりすればできるという。

 学校は楽しいですか-。「楽しいっちゃ、楽しい。(好きな教科は)体育。あとはなんだろう。ない」。萌羽さんの笑顔は癒やし系。沢田さんが少しあきれたようにほほ笑んだ。

 

 脊髄小脳変性症とは 立ち上がったり歩いたりする際にふらつく、手がうまく使えない、話す時にろれつが回らないなど、さまざまな動きが円滑にできなくなる「運動失調」を起こす神経の難病。原因は後頭部の下側にある小脳の異常のほか、病気が脊髄まで広がることもある。遺伝性と非遺伝性がある。症状の進行はゆっくりだが、進行すると、のみ込み(嚥下=えんげ)機能などが障害される場合もある。

 

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