昔はどの家も貧しく、麦飯、大根飯、干した大根の葉を入れた干し葉飯などコメを節約する「米のばし」として、いろいろな工夫をした。学校に持って行くのも梅干しの日の丸弁当や、みそ漬けをべったりとのせた弁当など粗末なものだった。1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まると、暮らしは一層、厳しくなった。

 若者は皆、戦地へ行った。県南各地でも徐々に空襲が増え、機銃掃射の音がすると物陰に隠れた。平泉町では駅周辺が爆撃され、ドラム缶の油が激しく黒煙を上げていた。一関市では防空壕(ごう)の入り口に爆弾を落とされ、生き埋めになった人がいるとの話も聞こえてきた。

 米軍機が焼夷(しょうい)弾を落とすと、大人も子どももバケツリレーで消火した。わら人形を作って、竹やりで「エイヤァ」と突く訓練にも励んだ。竹やりなんて今では冗談みたいな話だが、当時は真剣そのものだった。

 戦争が激化すると飛行機の燃料が不足し、私たちは山に行き、松の根を掘り出して搾油した。

 我慢、我慢の生活だったので45(同20)年8月15日に玉音放送を聞いた時は何とも言えず、ただ涙した。