太平洋戦争が始まった翌年の1942(昭和17)年、私は憧れの女学校に入学した。戦時下で制服は全国統一となり、紺色のへちま襟にさらに白い襟を重ねたデザインの上着と、ズボンだった。体育の授業も布の節約のためかブルマーではなく、ひだなしの短パン。ゴムの輸入が絶え、裁縫の時間には布でズックの代用品を作った。家から持ち寄ったしまや花柄の布で縫った足袋をはき、外ではげた履きだった。

 学校配属将校として陸軍中尉がおり、生徒の憧れだった。教練の時間には1班を軍隊式に1分隊と呼び、号令に従い分列行進した。英語の授業は廃止された。

 働き手が出征するようになると人手不足になった。私たち女学生も小岩井農場などに勤労奉仕に出た。大豆畑や麦畑の除草、リンゴ園では袋掛けに励んだ。南昌山の麓で田植えをしたときには、砂糖が乏しいため農家の方が小昼(こびる)(おやつ)として塩味のぼた餅を出してくれた。空腹の私たちは大喜びで食べた。

 山の炭焼き小屋から馬車道まで運ぶ炭俵はずっしりと重く、へこたれそうな気持ちを軍歌を歌って奮い立たせた。昼食はおにぎりに、その辺で採ったウルイ、ワカメのみそ汁。今も懐かしい味だ。

 学校では白鉢巻きをして、家庭から供出されたミシンで兵隊さんの雑のう(リュック)を縫った。

 45(同20)年3月10日、盛岡駅に焼夷(しょうい)弾が投下され、焼け野原になった。市内の中学生、女学生も焼け跡整理にかり出され、戦況悪化を肌で感じた。その頃には、たびたび敵機が飛来するようになっていた。灯火が消えた真っ暗な盛岡のまちを、編隊で南から北へ飛んでいく。翼の光がきれいで、ただ上空を過ぎ去ってほしいと祈った。

 自宅に近い盛岡市松尾町には旧盛岡劇場があった。大きな建物は狙われやすい。一帯の家が建物疎開を命じられ、女学校から帰るとその日のうちに生家は更地になっていた。

 疎開先は母の郷里にある叔母の家で、女学校まで片道6キロもある。防空頭巾と、包帯や三角巾、消毒薬のマーキュロ、炒り豆を入れた袋を肩に掛け、もんぺにげた履きで歩く。市街地の東、北上川と簗川の合流点にある簗川橋を渡ると、遠野街道は急に寂しくなる。景色は良いが、人っ子一人歩いていない。1時間半かけ、やっと叔母の家に着く。毎日へとへとだった。

 叔母はリンゴ農家。コメは自分たちで食べる分しか作っておらず、分けてはもらえない。夕食はジャガイモやニンジン、豆などがまざったごはん。空腹なので、おいしく食べた。

 私たち家族は5人で10畳1間に暮らした。冬は寒くて布団に腹ばいになって勉強した。午前5時に起き、同7時には学校へ出発する。それでも学校では、縄ないなどの勤労奉仕続きで通常の授業は少なかった。

 終戦の玉音放送は校庭に整列して聞いた。悔しさと、もう怖い思いをしなくて済む安堵(あんど)が入り交じって涙があふれた。女学校4年生、16歳だった。

 92歳の今も、国民が各々の立場で苦しんだ忌まわしい戦争を忘れない。戦争は未来永劫(えいごう)、絶対にしてはいけない。