紫波町上平沢の関満子さん(84)は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日の盛岡空襲で、盛岡市の平戸地区(現・同市盛岡駅前通)にあった自宅を失った。一家は窮乏し、桜城小2年だった関さんは靴磨きで家計を支えた。周りでは銃後の守りとして女性たちが駆り出され、名誉の戦死として連日、夫や息子らの葬列が出た。「食うや食わずで翻弄(ほんろう)され、亡くなったのは、こうした普通の人たちです」と関さんは訴える。

 関さんの実家は盛岡駅前にあった。親戚が近所で洋食店「陸奥館」と駅弁店「むつ弁」を営んでいた。父松四郎(しょうしろう)さんが厨房(ちゅうぼう)を担い、オムライスやハヤシライスが人気だった。太平洋戦争が始まり、盛岡駅に捕虜の米兵を乗せた列車が着くようになると、彼らに配る弁当も作った。食糧難だったが、折りにはご飯が詰まっていた。敵味方を問わず、兵士は厚遇された。手渡すのは関さんの仕事だった。「箸は使えるのかな」。車窓から伸びる赤毛の腕をホームから見上げた。

 戦況が悪化し青壮年男性が次々に出征すると、女性たちが戦意高揚に駆り出された。かっぽう着姿のラッパ隊が編成され、ラジオも普及していない当時、戦果が上がればパレードをして回った。東京へ向かう兵士が盛岡駅に集まれば、総出でもてなした。

 関さんの兄一男さんは、盛岡商高在学中に志願して海軍に入った。神奈川県の横須賀港から出撃したが船は間もなく撃沈され、100人を超す乗組員のうち一男さんと上官の2人だけが助かった。米軍の制海権は日本近海まで拡大していた。この頃になると盛岡でも連日、戦死者の葬列が見られるようになった。

空き家転々

 盛岡空襲は45年3月10日午前2時半ごろ始まり、B29が焼夷(しょうい)弾を落とした。空襲は輸送や生産の拠点を標的にする。盛岡駅周辺も狙われ、焼け野原になった。8人きょうだいの5番目で次女の関さんは2歳の弟をおぶって逃げた。

 自宅も店も焼け、一家は空き家を転々とした。家財を失ったため、物々交換で闇米を得るのも難しい。食糧は配給頼みとなったが、大家族には風当たりが強く、しばしば腐った芋をあてがわれた。

 やがて終戦を迎えた。食卓に上るのは変わらず、わずかな穀類と豆を大量の水で煮たおかゆ。腹持ちが悪く、弟たちは決まっておねしょをした。雫石川の土手で、ヨモギやイナゴを取って食いつないだ。学校に弁当を持って行けず、昼は「食べたくないから」と1人、校庭のブランコでじっとしていた。「おなかすいた」。帰ってそう訴えると母テルさんはいつも、黙って頭をなでてくれた。

足元にお金

 関さんは、兄たちと駅頭で靴磨きをするようになった。仕上げにしっかり水拭きして、つやを出す。貴重な現金を得るため必死だった。改札に近いと客入りが良いので場所取りもしたが、同業者に「ここは俺の所だ。どけ」と怒鳴られた。懸命に稼いでも手に入る米はわずかだった。両手に収まる量を買いに行くのが、子ども心にも恥ずかしかった。

 ある日、きちんとした身なりの紳士が、靴を磨いてもいないのに、足元にお金を置いて立ち去った。しばしあっけに取られ、ようやく事態をのみ込んだ関さんは、必死に追い掛け突き返した。「こじきじゃない」と涙した。当時の盛岡には、開運橋の下などに「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児が大勢住んでいた。子ども1人では生きられない。板やむしろ、木の枝で囲った小屋で固まって寝て寒さをしのぎ、手分けして物乞いに出ていた。

まちは一変

 戦後間もなく、現在の盛岡市大通周辺に闇市が立った。復員兵や傷痍(しょうい)軍人が行き交い、鋭い目をした男らが呼び込みをしている。どこから仕入れたのか米や野菜が積まれ、何が入っているのか分からない煮込みを売る店もあった。「こんなにたくさん。今までどこにあったのよ」と、関さんは怒りがこみ上げた。

 まちの様子は一変した。米兵がわが物顔でジープを走らせ、彼らには誰も逆らえなかった。えたいの知れないやからがうろつき、女性をさらうこともあったようだ。関さんは現に、姉の友人の親が自宅を訪ねてきて「娘から、肌の色が違う子が生まれた」と泣いていたのを覚えている。

 柔道の心得があった松四郎さんが、女性に絡む兵士を投げ飛ばしたこともあったが、多くの人は見て見ぬふりをした。日本は負けた。あすどうなるとも分からない混乱期。皆、生き抜くのに必死だった。

 76年がたち、80歳を過ぎた今も、関さんはこうした話を子どもらに語り伝える活動を続けている。新型コロナウイルス禍で休止中だが、収束したら再開するつもりだ。「悪い国にならないように。もう誰も泣かないように。記憶のバトンを渡していきます」