私が国民学校2年の時に父が出征し、戦死した。母はまだ32歳だった。祖父母はもちろん、曾祖母も母を助けたので、私たち子どもは不自由せずに暮らすことができた。家族、地域で助け合って生きてきた。

 1877(明治10)年生まれの曾祖母は、家事も子守りもする働き者で、秋には保存食を作った。乾燥させた大根の葉を大鍋で煮て刻み、握り拳大に丸め寒風にさらす。この大根葉は煮干しだしのみそ汁にし、そこにそば粉を入れると「かゆ餅」になった。冬には麻糸で布を織り、野良着に仕立ててくれた。当時はまだ、こうした明治期の暮らしが残っていた。

 国民学校の児童は、供出として縄を学校に持って行かねばならなかった。縄の供出は、約50戸で成る部落(集落)ごとの割り当てもあり、住民が共同で作業した。しかし、供出した縄はどのように使ったのだろう。思い出すたびに疑問が浮かぶ。

 米も供出を命じられ、農家でも米は不足した。節約のため雑穀はもちろん、野菜などでかさ増しした「かて飯」を食べねばならなかった。そのための(具材を切る専用器具の)かて切り機もあった。

 あらゆる物資が乏しく、松林では幹を切り、掘り起こした根から「松根(しょうこん)油」を取った。戦後、かつて松林があった所に新制中学の校舎が建った。疎開学生もいて大人数だった。教科書の大半は墨で塗った。ノートは薄く破れそうで学用品にも事欠いたが、進学への希望があった。

 高校卒業後、いったん古里を離れたが2年で帰郷した。祖父が嫁ぎ先を決めていたからだ。嫁いだ家では人を雇って農業や山仕事をし「庄屋」と呼ばれていたが、戦後の農地解放で小規模農家になった。義父は戦死し、主人は役場勤めのため、農業は義母と私でやらねばならなかった。

 農家による協同作業の仲間に入れてもらえたので、田植えなど7戸が一緒に作業した。その中で大先輩たちに励まされ、地域のことから野菜作りの秘訣(ひけつ)まで多くを教わった。まさに生活学校と言うべき学びの場だった。その後、どんなに農業の機械化が進んでも「結いっこ」という互助の精神は残っている。仲間に支えられてやってきた。

 主人は定年退職し、長男が就農して専業農家となったので、私の役目は終わった。苦しかったことは忘れて前向きに生きている。