北上市相去町の三浦漠(ばく)さん(81)は、第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年夏に出会った母子の姿を忘れられずにいる。一家の主を戦争で失い、やむにやまれず手にした闇米も没収され路頭に迷っていた。自分の食いぶちが減るからと、手にした芋を渡しそびれた三浦さんは「できることなら一目会って謝りたい」と今も胸を痛める。

 三浦さんの家は米穀商で、戦時中は食糧配給所になった。連日、100人以上が列を成し父馨さん、母美佐子さんが対応した。既に戦況は悪化し、当時5歳くらいだった漠さんは、上空をキラキラ光って飛ぶ敵機B29を眺めて過ごしていた。

 ある日、赤ん坊をおんぶし、漠さんと同い年くらいの少年を連れた女性が警察官に促されやってきた。少年は仕立ての良い半ズボンをはき、言葉になまりもない。疎開者だろう。女性は米が入った布袋を握りしめていた。闇米がばれたらしい。当時は配給所で没収する決まりだった。

 「誰から手に入れた」「どこの部落(集落)で」。いくら問われても女性は答えず、ひたすら「少しだけでも」と懇願した。警察官は首を振り、米袋を取り上げた。その途端、少年は「泥棒じゃない。着物と交換したんだ」と警察官の脚に組み付いた。暴れたせいで、少年のげたの底板が割れた。

父馨さん(後列左)らと写真に納まる三浦漠さん(前列中央)=1945年ごろ、北上市相去町

 女性は叫ぶ息子を止めもせず、夫の戦死を証明する書類を懐から出し、黙って示した。目に怒りがこもっていた。警察官はそれを見るや敬礼したが、結局、米袋は返さなかった。食糧事情の逼迫(ひっぱく)で闇取引が横行し、例外を認めればきりがない。窮状を知ってなお、没収するしかなかった。

 警察官が去ると、土ぼこりが立つ路上には母子と、漠さん家族が残された。じっとしゃがみこむ女性に、馨さんは「最後まで(米提供者の)名を明かさなかった。見上げたものだ」と慰めた。女性は「農家の方の誠意に、できることをしたまでです」とつぶやいた。

 美佐子さんは自宅から、朝食用に取っておいたサツマイモを持って来て、母子に手渡すよう漠さんに言った。近くで見ると少年の腕は筋張っていて、自分よりずっと細かった。

 母子は土下座して芋の礼を述べた。馨さんは少年を立たせ「巡査に立ち向かったのは勇敢だった。しっかり勉強し、お父さんの分までお母さんを守りなさい」と頭をなでた。少年は初めて安心したようにうなずき、漠さんにほほ笑んだ。

 母子は何度も振り返って頭を下げ、どこかへ立ち去った。背中の子はすでに泣きやみ、少年は割れげたを指に引っかけ、はだしでふらふら歩いて行った。

 考え込むようにしていた美佐子さんは、芋をもう2本持って来て再び漠さんに託した。漠さんは懸命に追ったが、とっさに自分たちが食べる分がなくなると思い足を止めた。なぜだか分からないが、不安で仕方がなくなった。帰ると、美佐子さんにひどく叱られた。

 今も、少年の後ろ姿が目に浮かぶ。生きていれば、きっと80代。「戦争の犠牲者は兵士だけではない。静かな暮らしさえも壊される。ただ、むなしい」。漠さんは渡せなかった芋の重さを思い起こし、一言わびたいと願い続けている。