1940(昭和15)年8月、5歳の私は父母きょうだいと共に、旧ソ連国境近く、現在の中国東北部にあった満州国の牡丹江市に渡った。

 牡丹江市は国境のまちとして特殊な使命を担って設置された軍都であり、日本の満蒙開拓団の入植拠点でもあった。満州国は主に中国東北部の民族である満人、それに朝鮮人、蒙古人、白系ロシア人が住んでいた。日本人は新市街をつくり、一等国意識で日本人だけの社会を構成していた。

 父は満州国の官吏となり、牡丹江市協和会本部に勤めていて、私たちは家族で市内の官舎に住んでいた。官舎はれんが造りの平屋建てで、部屋は二重窓、ロシア風暖炉のペチカで暖を取っていた。

 太平洋戦争開戦の翌42(同17)年4月8日、私は牡丹江聖林在満国民学校初等科に入学した。内地(日本本土)の各地から満州に渡ってきた日本人の子どもたちの学校だ。

 下校途中には、満人たちが暮らす旧市街から、しょっちゅう罵声や石つぶてが飛んできて、一目散に新市街の官舎に駆け込んだ。

 遠足の時、1年生の担任だった大谷シゲノ先生の引率で野原を歩いていると、道端に銀バエの群がる満人の遺体を目撃し、びっくりして先生にしがみついたこともあった。

 今も覚えている中国語は「ノーテン・ホワイラ(頭が悪いね)」「マン・マンデ(ゆっくり)」「メーファーズ(仕方がない)」「ショーハイ(子ども)」ぐらいだ。当時、牡丹江にいた日本人の子どもは、日本語の通じる日本人学校に通っていた。幼なじみの中国人もいなかった。

 多民族国家を目指すとした満州国が「五族協和」をうたっても、実際には日本人は日本人の考え方で、日本人社会をつくっていた。

 今も目に浮かぶのは、中国の子どもたちが外で、ふっくらとした「マントウ」を実にうまそうに食べている光景だ。トウモロコシで作った黄色の蒸しパンだ。中に具が入っているわけでもないそれを、中国の子どもは本当においしそうに食べていた。

 私たちに、マントウを買う小銭が無かったわけではない。だが母は、それを買うことを許さなかった。それでも私は、マントウが食べたかった。あの子どもたちが本当にうらやましかったのだ。思えばこれが、私と中国との「距離」だったのかもしれない。